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3.平野佐五郎編

浦霞の歴史

12号酵母発見!

Vol.9


page9.jpg 当時のお酒の成分の分析の様子

佐五郎が浦霞に来て、浦霞の酒質は確実に変わった。
佐五郎、重一コンビは特に吟醸造りが上手く、香りの良い酒を造った。
吟醸酒の香りは通常は、リンゴや梨のような香りがする。それがイチゴのような香りがしたと言う。
「浦霞でイチゴのような香りを出した」という話を聞き、何か香りの成分を付け足したのではないかと国税庁の醸造試験場で調べに来たこともあったと言う。
当然、何かを付け足すということは無く、それは吟醸酒の醸し出す自然の香りだった。

このことにより、「浦霞」と平野佐五郎の名は全国の蔵元や杜氏達の間で一躍有名となった。そして、灘、伏見は言うに及ばず、全国の蔵の杜氏達が佐五郎の酒造りを見たいと国税局に頼み込み、見学に来たと言う。
これにはさすがの佐五郎も閉口し、ついには税務署に「仕事にならない」「あんまり紹介するな!」と怒ったと言う。

当時専務だった12代社長 佐浦茂雄は『全国の蔵元や、丹波の杜氏とかがうち(浦霞)を見たいと国税局に頼み込みこむんだよね。そして、国税局が税務署を通して、うちに「見学に行きたいそうだから見せてくれるか」って言うわけだ。国税局の紹介だからね。断るわけにはいかなかったんだ。だから続々来るんだよね。それにはうんと困った。」と生前言っていた。

佐五郎が来るまで浦霞は昭和6年の2位入賞以来、全国新酒鑑評会で賞はとっていなかった。
それが、佐五郎が浦霞で酒造りを始めてからは昭和27年の首席入賞を皮切りに毎年の様に入賞して行く。
昭和28年には首席こそ逃しはしたが2位入賞した。これには「親父(佐浦菊次郎)すごく悔しがったんだ」と佐浦茂雄は笑って話していた。昭和29年には惜しくも入賞できなかったが昭和30年には3位入賞を果たす。
順位制ではなくなった昭和31年からは8年連続金賞を受賞した。(昭和31年から平成20年まで本社蔵は31回、矢本蔵(平成6年11月より稼働。)は8回金賞を受賞している。)

数多くの賞を受賞していく中で浦霞の醪から生まれたのが「きょうかい12号酵母」だった。

宮城県酒造組合醸造試験所では県産酒の質的向上に寄与することを大きな目的として、県内の良い酒を醸した蔵元から醪をサンプルとして採取し、酵母を分離・培養して県内の希望する蔵元へ供与していた。
数多くの賞を受賞している浦霞の酵母も例に漏れず宮城県酒造組合醸造試験所により分離・培養されていた。
その中でも、昭和41年頃に分離された浦霞の酵母は最高のものだったと伝えられている。

その酵母を佐五郎は宮城県酒造組合醸造試験所に「県内の蔵元には自由にお分けください。しかし県外へは2、3年隠しておいてください。」。そして、「私の弟子達でこの酵母を使いたいと言ってきた者がいたら使わしてやりたいものですから。」と付け加えたという。
これは各地の蔵で活躍している佐五郎の弟子達が佐五郎の酵母を使い、鑑評会で好成績を上げられるようにとの思いから出た言葉だった。この酵母は弟子達の間で「平野酵母」と呼ばれ、この酵母を使った弟子達の殆どが鑑評会で好成績を上げていく。

「平野酵母」についてはこんなエピソードがある。
佐五郎の弟子達は、「平野酵母」を佐五郎の家に直接分けて貰いに行っていた。
時には弟子仲間と鉢合わせすることもあったと言う。それで初めてお互いに「平野酵母」を使わせて貰っていたのかとわかったと言う。そして悪いことをしている訳でもでも無いのに、その事をお互い腹の中に治め、口外はしなかったと言う。
なにか秘密めいたものがあった「平野酵母」だった。

「平野酵母」を使った者が殆どと言っていいほど鑑評会で好成績を上げているということが噂となり、昭和60年頃、日本醸造協会から「宮城県酒造組合が浦霞から分離した酵母は吟醸用酵母として非常に評判が良い。きょうかい12号酵母として広く活用に供したい。」との依頼があった。
日本醸造協会は醸造に関する科学・技術の研究とその振興を図り、醸造の進歩発展に資することを目的として創立された財団法人で、その活動の一環として酵母菌の頒布も行っている。
きょうかい酵母として登録されることは大変名誉なこと。こうして佐五郎の弟子達の間で「平野酵母」と呼ばれていた浦霞の酵母は20年の時を経て「きょうかい12号酵母」として生まれ変わった。

時を経て「きょうかい12号酵母」として頒布されていた浦霞の酵母は現在は頒布されていない。
酵母は生き物。時代の流れとともに変異してしまうことがある。香りが高く、吟醸酒向きだったこの酵母も今では酸が多く出てしまう酵母に変異してしまい、吟醸酒には向かない酵母となってしまった。
現在、浦霞では「きょうかい12号酵母」の流れを汲む酵母を自家培養して使用している。

佐五郎の酵母は弟子達の間では今は使われていないが、その酒造りは浦霞の杜氏達をはじめ佐五郎の弟子、そして孫弟子達の間で今も変わることなく受け継がれている。