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3.平野佐五郎編

浦霞の歴史

浦霞へ来るまで

Vol.7



page7_1.jpg    平野佐五郎

平野佐五郎は明治34年3月9日に重一と同じ岩手県和賀郡更木村(現 岩手県北上市更木)の農家の次男として生まれた。兄は重一の父親。
佐五郎が最初に酒造りを始めたのは更木村の蔵だった。
その時の杜氏は、別家の平野三蔵。

大正から昭和にかけては山形の蔵で、昭和10年からは石巻の蔵で酒造りを行った。
その間、昭和22年、重一が佐五郎の下で酒造りを始めることとなる。
そして昭和24年、浦霞で酒造りをすることとなり、塩竈に居も構えた。

佐五郎は酒造りに関しては一本気。そして何より気むずかしい人だった。しかし酒造りは天下一品。酒造りに関して、しばしば蔵元の当主と衝突したこともあったと言う。


page7_2.jpg    佐浦菊次郎

浦霞では、昭和初期から畠山長蔵が杜氏として酒造りをしていた。
畠山杜氏はかなり良い酒を造ってはいたが、高齢の為、昭和20年に酒造りを引退、浦霞で瓶詰め作業を行っていた。(佐五郎、重一が浦霞に来た頃にも畠山杜氏は瓶詰め作業を行っており、その後2~3年は浦霞で瓶詰め作業を行っていたと言う。)

昭和21年より熊谷杜氏が浦霞の酒造りを担当。しかし、当時の浦霞の社長 佐浦菊次郎が思い描くような酒が出来なかった。思い悩んだ菊次郎は仙台国税局の鑑定官室で室長をしていた長沼篤治先生に相談する。

名人気質で生真面目でしかも酒一筋に生きてきた佐五郎は石巻の蔵元の当主と意見が合わ
ず自分の腕を振るえないでいた。それを聞き及んだ長沼先生は菊次郎に佐五郎のことを話
す。

菊次郎は「それではうちに来て大いに腕を振るっては貰えないだろうか」と長沼先生に紹介をお願いする。こうして菊次郎と佐五郎が出会うこととなった。

佐浦家の次男として生まれた菊次郎は横浜で貿易業に従事していた。
しかしながら、浦霞を継いでいた兄昇太郎が急逝。昭和15年急遽浦霞へ戻ることとなる。

そのようなこともあり、菊次郎は酒造りに関しては一切口出ししない人であった。酒と言えば何でも売れていた時代。
そんな時代に菊次郎は常識はずれに米をふんだんに使う佐五郎の酒造りを容認した。それが今日の浦霞へと繋がっていく。

当時佐五郎は48才。浦霞へ来るまでは平野三蔵以外特定の師を持たず先輩杜氏の技を盗み、人知れず研究に勤しんでいた。それが、造る以上は絶対良い酒でなければ造らないという信念に繋がり、腕にも絶対的な自信を持っていた。
特に吟醸香を出すのが得意で全国新酒鑑評会でも3回首席をとり、吟醸造りの名人と称されるようになっていく。

仕事に対しての厳しさは比類なく、そして自分がそうしてきたように弟子達に教えるということはせず、自分で研究することを求め、仕事の内容について質問を投げかけるだけで判断は各自にまかせた。しかし、その判断が自分の酒造りに反した時には厳しくしかりつけたという。

重一は佐五郎のことを「まず、怖い人というのが誰もが受ける第一印象でしょうね。次に何事も徹底的にやる人。そして綺麗好き。」と語る。

佐五郎が来て浦霞がどのように変わってきたのだろうか?次は佐五郎が浦霞にきてまず最初にやったこと。そして浦霞がどのように変わってきたかを振り返ってみたいと思う。