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3.平野佐五郎編

浦霞の歴史

重一に杜氏職を譲って

Vol.10

佐五郎は昭和35年、重一に杜氏職を譲り、浦霞の技術顧問に就任した。

page10.jpg平野佐五郎 

 

その傍ら、宮城県杜氏組合の組合長や南部杜氏協会の会長、日本酒造杜氏組合連合会の副会長等を歴任。その合間を縫うようにして弟子達の蔵を回り指導した。

佐五郎は南部弁で「むんつん(がんこ)」者と言われ、自分がこうと思ったことは絶対曲げない性格だった。そして何事も徹底的にやる人で、弟子達に対して厳しいのは勿論のこと、自分自信に対しても厳しい人だった。気が短かったこともあり、佐五郎を怖がる蔵人は多々いたという。しかし、何故か皆佐五郎のことを慕っていた。佐五郎は休憩時間等にはよく冗談を言い、皆を笑わせていたという。ただ単に厳しいだけではない、そこが佐五郎が慕われた所以だろう。

重一も「杜氏はただ厳しいだけではだめだ。時には冗談も言って、場を和ませることも必要だ。」と言っている。

重一編でも書いたが、浦霞には佐五郎を慕って何人もの杜氏経験者が再勉強の為に来ていた。多い時には4~5人もの杜氏経験者が再勉強の為に蔵入りしていたという。
中には杜氏として蔵元で酒造りをしたはいいが、蔵元の社長と意見があわず辞めてきた者もいた。そういう者が佐五郎の下、浦霞で再勉強をしていた。
重一は当時のことを「ちょうど俺が頭(かしら)を始めたころから杜氏のOBがみんな来るわけよ。失敗したのも来れば、いたずらしたのも来る。だからここは働く人に事欠かなかったんだ。みんな一生懸命だった。」と話していた。

そして他の蔵元の社長より佐五郎によい杜氏がいないかという相談があると、浦霞で勉強している杜氏経験者の中から佐五郎が推薦し、他の蔵元の杜氏になったものが何人もいた。

杜氏経験者が何人も働いていたことで、蔵内での議論も活発で、作業中はある種の張り詰めた緊張感が漂い、一種独特の雰囲気があった。そして佐五郎の下、技術に磨きをかけた杜氏達が全国の蔵元に散らばって行った。浦霞の杜氏を重一に任せた後、佐五郎はそうした弟子達のいる蔵を回って技術指導をした。弟子達の蔵に行き、まず見るところはガラス窓の桟や棚等だったという。汚れてると「どんなに立派な装置を使っていても良い酒が出来るわけがない。」と怒った。佐五郎は良い酒を造る為に蔵の中を清潔にすることを、弟子達にも徹底させていた。
また、他の蔵元の社長からの要請で技術指導に出ることもあった。

もちろんそれは当時の浦霞の社長菊次郎の了解の下でのことだった。

その頃のことを重一は「『ずいぶん出て歩くなぁ』と思っていたんだけれども、『俺、ちゃんと社長と話し合って、こっちに支障がない限り出て歩いてもいいと言う許可を貰ってるんだから』て言われちゃうんだよなぁ」と笑って話してくれた。弟子達としては「ちょっとおかしいから来てみてくれ」とか「なかなか香りが出そうにないから来てみてくれ」とかと佐五郎を頼ってのものだった。その頃は税務署は週に2回ぐらい検査に来ていた。佐五郎が弟子達の蔵を回っている間、重一は酒造りはもちろんのこと、税務署への対応も行うこととなり、浦霞の酒造りの全責任を負うこととなる。重一は「これも仕方ない、社長と話し合って歩いてるんだからなぁ」と思ったこともあったというが、浦霞の酒造りを重一に任せたことは、佐五郎が重一を信頼してのことだった。

佐五郎はむんつん者ではあったが孤高の人ではなかった。確かに秘密主義のところはあったかもしれない。しかし、未知なるものに対しての好奇心、探求心等は素直に出していた。

ベテランの杜氏や試験所の先生達に素直に教えを請うという謙虚さも持ち合わせていたと言う。

世間一般では怖い人と言う印象を持たれていたが、それは酒造りに関してであり、普段は温厚な人だった。そう言う人柄が佐五郎を各種要職につかせたのだろう。