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3.平野佐五郎編

浦霞の歴史

平野会結成

Vol.11


page11.jpg 晩年の平野佐五郎

佐五郎を慕う弟子達は昭和40年、佐五郎の酒造りの勉強の場として平野会を結成し、技術交流の為、時折集まるようになった。その後、平野会は100名を越す南部杜氏の一大勢力へと成長していった。

平野流の酒造りは当たり前のようではあるが、清潔を重んじる酒造りだった。
洗米の方法も同じ南部流でも杜氏によっていろいろなやり方があるが、平野流は竹ざるを使い、米の量も7kgで行っている。(浦霞では現在も吟醸酒の洗米はこの方法で行っている。)
7kgという米の量は佐五郎の経験上、一番効率が良いと判断した結果だったのだろう。

また、麹の作り方にも特長があった。
杜氏によっては栗の香りがする時の麹を使用するが、平野流は松茸のような香りがするものを使用する。そして一番の特長がトラ破精(はぜ)と言われる麹。破精というのは麹菌が蒸し米に繁殖し菌糸が白く見える状態をいうが、平野流の麹はその破精が虎の縞模様のようになっていることが特長だった。吟醸酒を造るにはこのトラ破精が正に理想の麹だった。

南部流と平野流、根本的には大きな違いはないが、平野流には佐五郎が工夫を重ね、この方法が一番良い方法だという酒造りのこだわりがあった。

南部杜氏には平野派とは別に照井派というもう一つの派閥があった。照井派とは、照井圓五郎という仙台の蔵元で杜氏をやっていた南部杜氏の重鎮の弟子達の集まり。平野派と照井派は事ある毎にぶつかりあっていた。ぶつかりあうというよりも競い合っていたというのが本当かもしれない。重一は「南部杜氏協会の中でも平野派と照井派というような分かれがあったんだ。これが事あるごとに意見が合わないわけさ。『ああ、あの野郎平野派だ』『あいつ照井派だもの、合わない訳さ』というようなもんで......。でも、そういう流派があって、競いあって技術の向上にはつながったと思うんだよね。」と言う。良いライバルがいてこそ良い酒が出来たのだろう。

佐五郎と照井圓五郎杜氏が南部杜氏協会の協会長を懸けて戦ったことがあった。佐五郎と照井杜氏は年代的にも杜氏経験年数もほぼ同じ位だった。話し合いで決めるか、選挙で決めるかといろいろ議論したが、どちらの派閥の人間も我が親分を勝たせたい。選挙にしようと決まりかけると、やっぱり駄目だとなかなか決まらなかった。どのような方法で決めたのか、結局は佐五郎が協会長を務めることとなった。佐五郎は昭和39年から昭和45年まで協会長を務めた。その間、照井杜氏は副会長として佐五郎を補佐した。照井杜氏はその後昭和51年から昭和57年まで協会長を務めた。共に6年間の協会長任期だった
佐五郎は昭和40年に黄綬褒章を受勲。昭和43年から昭和45年までは日本酒造杜氏組合連合会副会長を務めた。

佐五郎の直系の弟子達は重一のように後進の育成に努めている者や、まだまだ現役で酒造りをしている者もいるが、その数は少なくなってきている。一時は平野会の名称を変えようという話が出たこともあったが、人数は少なくなってはいるが直系の弟子達がいるうちはとその名称は残された。(現在、活動は行っていない。)
佐五郎の弟子達は酒造りに自信を持ち、佐五郎の弟子であることを誇りに思い、そして「佐五郎に推薦されて来たんだ」という自尊心を持って、またそれを大事にして他の蔵には移らず生涯その蔵で酒造りをし、皆、名杜氏となった。

重一は、酒造りにおいては佐五郎と叔父、甥の関係はなかったと言っている。むしろ重一に対しては厳しかったと言う。
佐五郎との関係を重一は「俺も気を遣ったし、佐五郎叔父も気を遣ったんでないかな。叔父、甥の関係があれは特にね。だからその分やっぱり俺は辛かったね。損したのかな。」と笑って話してくれた。

佐五郎が重一に杜氏を譲る際、当時の社長佐浦菊次郎と専務だった佐浦茂雄へこう語ったと言う。「私が甥の平野重一を他の蔵に出さずずっと手元に置いて片腕として仕込んで来たのは、"浦霞"の品質を今後益々高めて行く為の私の後継者と考えていたからです。もうすべてを甥に任せても絶対安心と思っています。但し、私と同様に彼の思うように造らせてやって下さい。これからどんな世の中になっても、しっかりとした良い酒を造らせていれば安心です。清酒は量も大切かも知れないが一番大切なのは品質です。」と。佐五郎が重一に厳しかったのは、単に叔父甥の関係で他の蔵人に対して気を遣っただけでなく、重一に自分の後継者として浦霞の杜氏になって欲しいという願いを籠めての厳しさだったのだろう。
その期待を背負い重一は技術に磨きをかけ佐五郎の意思を継ぎ、佐五郎をも凌ぐ南部杜氏を代表する名杜氏へと成長して行った。

ひとつの時代を築いた名杜氏平野佐五郎は昭和56年、その酒造りの人生に80年で終止符を打った。しかしその酒造りは弟子達へ、そして孫弟子へと継承されている。

不世出の名杜氏平野佐五郎を輩出した佐浦家とはどのような蔵元だったのだろうか。その歴史を紐解いてみたい。