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4.蔵元佐浦家について

浦霞の歴史

鹽竈神社の御神酒酒屋として

Vol.12

page12.jpg   鹽竈神社の神苑から塩竈湾を望む風景

佐浦家初代については12代当主佐浦茂雄がこう語っていた。「佐浦家初代は、佐藤七左衛門という人の次男で京都から塩釜にやってきたんだね。それで、塩竈の三浦屋権右衛門という人の婿養子になったんだって。お寺の過去帳に載ってるんだ。婿養子になって、最初は糀をつくってたんだけれども、酒造株を取得して、酒屋を正式に始めたのが享保9(1724)年。それで鹽竈神社の御神酒酒屋の看板をもらったと、こういうことなんだね。それが尾島屋富右衛門というんだね。これが初代なんだね。」

かつて塩竈は「塩竈の浦(千賀の浦)」と呼ばれ、風光明媚なところとしてはるか都人の憧れの地だった。「源氏物語」の光源氏のモデルとされた源融(※注1)は「塩竈の浦」に憧れ、京都・賀茂川のほとりの自邸の庭に海水を運ばせ「塩竈の浦」の景色を模して楽しんだという(※注2)。佐浦家初代尾島屋富右衛門も塩竈の地に憧れた一人だったのだろう。そして、塩竈の地に憧れるあまり、塩竈へ行くことを決意したのではないだろうか。

※注1 源融(みなもとのとおる)
嵯峨天皇の皇子で、仁明天皇の異母弟。左大臣。
陸奥出羽按察使(あぜち:地方行政の監督官)。
自邸の庭に「塩竈の浦」を模したことから河原左大臣と呼ばれた。


※注2 六条河原院苑池
その遺蹟が東本願寺の飛地境内地の渉成園と伝えられている。
源融が自邸の庭に「塩竈の浦」を模して楽しんだことは「宇治拾遺物語」「伊勢物語」でも紹介されている。

            
塩竈へやってきた初代富右衛門は、鹽竈神社へ御神酒を納めるようになったことで鹽竈神社の氏子総代も引き受けることとなった。
屋号も初代の生家の佐藤の佐と婿養子先の三浦屋の浦をとり佐浦屋富右衛門と名乗る。その後佐浦家では富右衛門を代々襲名していく。

酒を造る為の米の量は当初は21石(※注3)だったが、天命年間(1781年~1789年 3代目の時代)には90石となり、天保年間(1830年~1844年 5代目の時代)には300石となった。
当時、仙台藩では酒屋の酒株の造石高を90石、150石、300石と定め、150石造を標準として、300石造の酒株は極めて限られた酒屋にのみ許されていた。


※注3 1石は約150kg。
御神酒を造る為の米は鹽竈神社の御祭田から支給された。
鹽竈神社へ御神酒を納めた残りの酒は鹽竈神社の台所酒として払出しされ、その残りが市中払いが許された。

         
佐浦家は伊達家の菩提寺でもある松島の瑞巌寺をも敬っており、瑞巌寺の住職が百十四世丹源文叔僧の時代(※注4)に水道工事費を寄進する。時期は明確ではないが3代目富右衛門(※注5)か、4代目富右衛門(※注6)の時代といわれている。
この工事は瑞巌寺の西方の慈覚大師が錫杖で掘ったと言われている清水から竹樋で引いた。
その後、この竹樋は明治36年、百二十五世住職薩水宗箴僧の時代に陶管へ、大正12年、百二十六世松原盤龍僧の時代に鉛管へ交換した。その際も佐浦家の当主は工事費を寄進している。9代当主佐浦茂登の時代のことであった。

※注4 丹源文叔僧が瑞巌寺の住職を務めていたのは文化2(1805)年から文政2(1819)年。

※注5 3代目富右衛門は天明2(1782年)、富右衛門を継ぐ。

※注6 4代目富右衛門は文化13(1816年)、富右衛門を継ぐ。


佐浦家と瑞巌寺との親交は今日まで続いており、これが「浦霞禅」発売へと繋がって行くこととなる。
「浦霞禅」発売の物語はまた別の機会に。

5代目富右衛門は4代目富右衛門を継いでいた兄富次郎が夭折した為、文政2(1819)年、5代目富右衛門を継いだ。
5代目富右衛門の時代、天保4(1833)年に未曾有の大凶作が襲う(天保の大飢饉)。この大凶作は天保10年(1839年)まで続いた。
この難局に5代目富右衛門は母(3代目富右衛門妻)と協力し乗り切った。5代目富右衛門の母は飢饉の際、蔵の米を持ち出し、貧民救済を行ったという。また、社会事業にも力を注いだ。

この大飢饉により、藩より酒造りは1宿1軒とのお達しがあった。その際にも佐浦家は古株式(※注7)と鹽竈神社の御神酒を造ることを許されることとなり、また、5代目富右衛門は大肝入(※注8)にも任されることとなった。

 ※注7 古株式
 凶作その他の理由で藩から酒屋の認可を取り消され休業する場合があった。
休業せずに酒造りを続けた家は酒屋としての権利が強化された。そ のことを古株式と言った。


※注8 大肝入
代官の命令を受けて管内の村々の肝入を指揮・監督し、行政・司法・警察などの民政をつかさどる中間支配機構であり、各代官区内一つから四つ程度の地域に分け、それぞれ一名ずつが置かれた。
在任期間中、藩から五十石の知行地ないし一年に五両が支給され、また、年貢・諸役・郡役などが免除され、苗字の公称、帯刀や絹紬着用も許されていた。
(仙台市史 通史編4 近世2より)

                                       
慶応3年(1867年)に塩竈に大火があった際には佐浦家では持山の木を切り、家を建て、焼け出された人々に貸したという。

佐浦家は幕末に至るまで塩竈町古株式の筆頭を占め、清酒屋兼御神酒屋として繁栄していく。

佐浦家の酒造業が今日まで続いてきた背景には塩竈という土地の存在があった。塩竈は港町であり、当時より交通の要であり、また、旅籠や遊廓も軒を連ねていた。そこで使う酒が必要だった。そしてなにより奥州一宮鹽竈神社の存在が大きかった。
伊達藩4代藩主伊達綱村公は鹽竈神社の門前町である塩竈の町が衰退することを恐れ、塩竈は諸役御免、いわゆる税金が免除されていた。諸役御免は明治になるまで続く。この諸役御免の恩恵も佐浦家が酒を造り続けてきた大きな要因の一つだった。

佐浦家はここに記述したように、藩主伊達氏の崇敬の篤かった鹽竈神社の御神酒酒屋として酒を造り続け、そして、様々な困難を時代時代の当主達が優れた商才で切り抜けてきた。

そして、その歴代の当主の中でも、今日の浦霞の礎を築く9代目当主佐浦茂登が登場する。