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4.蔵元佐浦家について

浦霞の歴史

佐浦家9代当主 佐浦茂登の時代 浦霞誕生!

Vol.13

page13_2.jpg     佐浦茂登

佐浦家9代当主 佐浦茂登については12代当主佐浦茂雄がこう語っていた。

「8代目が富治っていう人で、それが佐浦茂登の弟なんだけど、ちょっと体が弱かった。それで、茂登は一遍、現富谷町にある旧家に嫁に行ったんだけども、事情があって......。旦那さんが死んじゃったのかな? それでうちに戻ってきたんだ。弟富治が病弱なもんだから代わって茂登が9代目の戸主になって、それで大いに商売を繁盛させた。明治維新後の混乱した時代なんだな、ちょうど。その、なかなか厳しい環境の中をうまく乗り切ったんだね。亡くなったのが昭和13年。88歳かな。なかなか商才があって、その間うちの酒屋をうんと大きくした。だからうちにとっては中興の祖なんだな、茂登は。うんと偉いんだ。すごく気の強い人で。僕なんかすごくかわいがられたらしいんだけど、だからいくらか覚えてる。なかなか商売がうまくてね、明治維新後の困難時代をうまく乗り切って行くんだね。 

page13_4.jpg    佐浦山での花見の様子

西塩竈に佐浦山っていうのがあるんだけど、その佐浦山に別荘をつくったんだ。そこの庭の桜の木なんか大したいい桜。池もあって、芝生でね。それでここで桜の時期にみんなを呼び寄せて大宴会をしてるんだな。それも商売を兼ねてのね。お得意さんなんか呼んでね。お得意さんサービスだね、そのころのね。塩竈の魚屋関係の商家のおばんつぁんたちを集めてアトラクションやったりさ。遊びながらうんと商売したんだよ、なかなか偉いんもんだね。今から思えば古き良き時代さ。

 

 

その別荘の裏手に稲荷神社があるんだよ。お稲荷さん、商売の神様ね。これは文政5年(1822年)に、うちの何代目か、4代目か5代目が京都の伏見稲荷へ行って分社してもらってきて、佐浦山にお稲荷さんをつくったんだね。

page13_3.jpg 記念碑の前で記念撮影をする茂登

それから茂登ばんつぁん。喜寿(77歳)の祝いの時に記念碑というか、ブロンズをつくったんだね。これ青銅だから戦時中に持っていかれて、それをうちの親父さん(佐浦菊次郎)が気にして、それでまた同じヤツを縁のある彫刻家につくってもらったんだ。
それからそのころは地元で造った酒はほとんど地元での消費。塩竈の場合は塩釜町。そのころはもちろん町。うちで造った酒はもちろん地元で消費する。仙台なんかにもほとんど持っていけない。仙台は仙台で酒屋がそれぞれあって、地元に密着してるんだね。だけどもうちの場合は、塩竈は港だから、船で陸中海岸に相当運んだんだね。宮古、釜石あたりに相当動かしたんだよ。だからうちの場合はわりと製造石数が多いんだよね。

明治28年(1895年)、大阪の印刷屋が全国の造り酒屋の製造石数を相撲番付に見立てたものを作ったんだ。それの一番上の東の前頭の21番目に佐浦茂登、3031石とある。全国でもわりと大きいほうだね。ということは地元の消費だけじゃなくて、三陸にも船積みで持って行ったからなんだね。だからこのころ地元で、それから三陸へと大いに販路を広めたんだね。」


佐浦茂登は嘉永3年(1850年)に生まれた。幕末、明治維新の激動の時代に幼年期、少女時代を過ごす。
明治12年(1879年)、嫁ぎ先から戻っていた茂登は病弱だった弟富治に代わり家督を継ぐ。
茂登、29歳のことだった。
家督を継いだ茂登は、杜氏を塩竈に常駐させ、夏場も酒の管理にあたらせ、あるいは高名な醸造指導者を招いて教えを受け、酒の品質向上に努めた。それが、戦後の平野佐五郎との出会いへと繋がっていくこととなる。

page13_1.jpg 茂登の葬儀の様子 大勢の人に見送られた

慶応3年(1867年)、塩竈に大火が起き、塩竈の町は焦土と化した。その際、佐浦家では持山の杉の木を切って住宅用に寄付した。その事を見ていたからだろうか、茂登は所有地の荒れ地を開発し宅地を造成した。それが今の塩竈市佐浦町。また、公共事業にも貢献し、昭和3年(1926年)紅綬褒章を授与される。宮城県女性初の褒章受章者となった。

また、無類の世話好きで、私財を投げうって困窮者を助け、神様のような人だと拝まれたという話も残っている。そのせいか、茂登が亡くなる直前には、病が高じたという知らせがあると、塩竈の人々は毎夜、おこもりをして回復を祈ったという。

 

大正14年(1925年)、陸軍の東北大演習が行われた。その際、佐浦酒造店では当時摂政宮であった昭和天皇に酒を献上する栄を賜る。 これを機にそれまでの酒銘「八雲」「宮城一」「富正宗」に超特級酒として浦霞の酒銘を追加した。酒銘は後に「浦霞」に統一されることとなる。

「八雲」の酒銘については明治35年(1902年)8月26日の奥羽日日新聞が「宮城郡塩竈町の酒造家佐浦もと方にては先頃より大阪地方の有名なる杜氏を招き熱心に醸造法の改良を図り今回八雲と名づくる芳醇無比の銘酒を発売せり」と書いている。

page13_5.jpg     瑞巌寺 御成門前にて

茂登は、時の大臣とも親交があり、薫陶を受けた著名人も多かった。
また、茂登は鹽竈神社はもちろんのこと、松島 瑞巌寺をも敬い、百二十六世住職松原盤龍(まつばらばんりゅう)老師をことのほか尊敬していた。大正12年(1923年)には漏水した水道の陶管を鉛管に代える工事費を寄進した。
当時の佐浦家では酒造りの繁忙期には50人、定雇いで30人の使用人がいたという。また、桶屋・左官・壁屋が毎日のように出入りしており、家事は女中5人と飯番が行い、夜番もいたという。茂登は商家の主婦のように使用人の着物を縫うということはなく、経営者に徹していたという。

そして、塩竈の本町通りを着流しで通るその姿は一代の女丈夫といった感じだったという。

今日の浦霞の礎を築いた茂登は昭和13年(1938年)、88歳で亡くなる。
その後、佐浦家の家督は孫昇太郎が継ぐこととなる。
だがそれまでは茂登が昇太郎の助けはあったものの、経営の実権を握っていた。
茂登は家督を譲ることもぜず、名実共に佐浦家の女主人であった。正に中興の祖である。