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4.蔵元佐浦家について

浦霞の歴史

佐浦家11代当主 佐浦菊次郎の時代

Vol.14

page14_1.jpg    佐浦菊次郎

佐浦家11代当主佐浦菊次郎が平野佐五郎杜氏と出会うまでを菊次郎の息子12代当主佐浦茂雄は生前こう語っていた。

「うちの親父さんは大学卒業して横浜で貿易商をやってたんだよ。浦霞酒造店は親父の兄貴、佐浦昇太郎が当主でやってたわけだ。

ところが昭和15年に昇太郎叔父が急に亡くなってしまった。浦霞酒造店にはあいにくと跡取りがいなかったんだな。昇太郎叔父は結婚はしていたんだけれども子供もいないし。それで、我々一家は泣く泣く塩竈へ引き揚げさせられたんだ。親父、お袋、子供は姉と僕。4人家族。僕の母は東京の日本橋生まれ。うちの親父さんが東京で慶応義塾大学を卒業するころ知り合ったんだろうな(笑)。 そのまま東京で一緒になって、それで姉は東京で。僕は東神奈川の牧場のそばで生まれた。横浜の次。ちょっと山のほう。お袋は親父と結婚して、東京でずっと住まうつもりが引き揚げさせられた。これはちょっと話が違うって感じで(笑)。いずれにしろ昭和16年から戦争だからね。東京は大変だったから。結果的には塩竈へ引き揚げて良かったわけだ。

 

 

page14_2.jpg   昭和初期の佐浦山での花見風景
     下段中央が佐浦昇太郎

うちの親父さんは慶応義塾大学を卒業して、貿易商へ務めていたので酒のことは全然分からない。その頃(戦時中から戦後にかけて)は酒であればなんでもいい時代だったから、最初はほどほどの酒を造っていたんだね。けれども、やはりそうはいかない。そして、杜氏が事情があって辞めるようなことになって、平野佐五郎杜氏に来てもらった。それで酒を全部、造りから何から一切任せて『好きなように造っていい。ただし良い酒を造ってくれ』ということでスタートしたわけだ。うちの親父さんにしても佐五郎杜氏にしても時代的にもちょうどよかったのかもしれない。うちの親父さんもあまり酒造りは分からないから任せたほうが楽だしさ(笑)。」

 

茂登が亡くなった後、浦霞酒造店は菊次郎の兄昇太郎が経営を引き継いでいた。昇太郎は当時としてはハイカラで粋な人で、土井晩翠(※注1)や白鳥省吾(※注2)など、文化人との交流が多かった人だった。浦霞の酒銘も茂登を手助けしていた昇太郎が考えたのではないだろうか。

page14_3.jpg 土井晩翠より贈られた歌

※注1 土井晩翠
現 宮城県仙台市生まれ。詩人、英文学者。
代表的な詩としては「瀧 廉太郎」が作曲を手がけた「荒城の月」がある。


土井晩翠より贈られた歌。

みちのくの 千賀の塩釜 浦霞
ほのぼのうかぶ 沖乃ほかげや
(みちのくの塩釜の沖に浮かぶ、船の帆影の
光り輝く情景の美しさを詠むとともに、
そのすばらしさを浦霞に重ねあわせて歌い、
賛辞頂いている。)

 

※注2 白鳥省吾

現 宮城県栗原市築館生まれ。詩人。
民衆派の代表的詩人。
詩ばかりではなく、翻訳や音頭や民謡・評論等幅広い文学活動を行った。

白鳥省吾作詞の塩釜小唄

一.桜ほのぼの塩釜様に 咲いた花見に浦霞
二.塩の塩釜時雨にくれて ともる帆影に浦霞
三.末のちぎりにさかづきかさね めでためでたの浦霞
四.塩釜よいとこ酒浦霞 ほんによい酒日本一

 

白鳥省吾作詞の塩釜音頭

一.昇る朝日は塩釜照らし 御宮詣りもチャラコロリ
松はこまやか世もなごやかに 酒はめでたい 浦霞
二.千賀の浦風名もうるやかに 造る齢も二百年
連綿御宮の塩釜様に 献げる御神酒の浦霞

※塩釜小唄、塩釜音頭共に浦霞流にアレンジしたものと思われる。

page14_4.jpg   昭和27年 全国新酒鑑評会首位入賞時のお祝い
         下段中央が菊次郎


  
その昇太郎が亡くなった。菊次郎は兄昇太郎が家業を継いでいたので、酒造りをやることなどまったく考えていなかった。それが突然戻ることになり、家業の酒屋を継ぐことになった。それは菊次郎にとって予想もしていない出来事だっただろう。そんな中で、菊次郎と佐五郎が運命的な出会いをすることとなる。

※佐五郎と菊次郎との出会いについては
「平野佐五郎編 浦霞へ来るまで」
をご覧ください。

酒造業に不案内だった菊次郎は「良い酒を造ってくれ」と佐五郎に浦霞の酒造りを託す。託された佐五郎は意のままに高品質の酒造りに挑み、各種鑑評会で上位入賞を果たす。それが酒販店、消費者からの信頼に繋がっていく。こうして菊次郎は浦霞の今日の礎を築いた。


菊次郎について重一は「佐五郎叔父が杜氏の時代だから、あまり菊次郎社長と細かく話しするっていうようなことはなかったんだけど、ただ、たまに蔵へ来るでしょ。そういう時は『どうだ、その後調子は』『はい、順調です』『OK!』て感じで、帰ってしまうんだね。「OK!」で終わったんだ。そういう人だった、蔵へ来るとね。来るっていったって、中までは入らないけどね。細かいことは案外気にかけないっていうか、『ああ、OK!』で終わり。そのころゴルフ場のことでアメリカと付き合いがあった頃だから『OK!』ってね。何ていうのかなぁ、話はすごく簡単なのね。あんまりめんどうくさくねぇっていうか。パパパパッと話が決まってしまうっていうふうに。
 
酒造りに干渉というのも全然なかったね。もちろん、佐五郎叔父に任せっきりっていうようなことを最初から考えてたんだろうから、酒がどうとかこうとかっていうのは一切なかったなぁ。ただ、やっぱり鑑評会とかで何か賞を貰うと「おお、おめでとう!」なんて。そういう方だった。だから絶対......佐五郎叔父に『もう、任せた』って感じだったんでないかなぁ。ただ、夜遅く外歩いて、転んで怪我するとか、酔っぱらいに絡まれるとかっていうようなことは考えにはあったようだね。だから、あまり夜遊びは遅くまでするなっていうようなことはたまに言われたなぁ。

それから、わたし茨城に行ったでしょ。出向2年。まあ、社長からみれば貸すってこと。それで時期が来たら戻る。ところが茨城の蔵では2年目で戻す気になんなかったみたいなの。それで菊次郎社長に来てもらったの。「もう帰りますよ、返してもらいますよ」って言ってもらった。

そしてね、あの頃は菊次郎社長は「特急はつかり」で東京を行ったり来たりしてたんだよね。飛行機もあったけど「はつかり」で。車内ボーイが社長の靴なんか磨いてやると、チップなんかいただいたなんていう話を聞いたことあるなぁ。それから、東京に行く時は仙台駅で改札通らないで駅長室から行くって話、聞いたよ。当時の駅長さんを知ってたのかな?

そして、背が大きくてやせ型で、ダブルの背広着て、中折りの帽子でまったくのジェントルマンさ。
明日でも何かしゃべることあるとね、表門から蔵の入り口あたりまで、行ったり来たりしながらあいさつの練習してたんだよなぁ。」と話してくれた。

昭和27年、息子茂雄が大学を卒業し、国税庁醸造試験場の講習を終え戻ってくると、菊次郎は茂雄に浦霞の経営を任せ、浦霞の宣伝活動と称して様々な文化人との交流を楽しんでいた。

佐五郎とともに浦霞の礎を築いた菊次郎は昭和47年に亡くなる。

菊次郎は生前よく「世の中はだんだん経済優先の時代に変わる。でも酒造りだけは自分流を曲げてはいかん。昔のままでよい。現代的につくったら、立派な酒は絶対にできん。損得抜きでいけ。」と言っていた。それは今でも浦霞の酒造りに受け継がれている。