会社案内

4.蔵元佐浦家について

浦霞の歴史

佐浦家12代当主 佐浦茂雄の時代

Vol.15

page15_1.jpg      佐浦茂雄

佐浦家12代当主佐浦茂雄は昭和4年2月19日に生まれた。後に茂雄とタッグを組んで酒造りに取り組むこととなる平野重一も奇しくも茂雄と同じ年に生まれている。(余談ではあるが、茂雄の生まれた日「2月19日」は浦霞の番地と同じ。浦霞の現住所は宮城県塩竈市本町2番19号。これも何か因縁めいたものがある。)

前述した通り茂雄は神奈川県で生まれた。その後父菊次郎が家業を継ぐこととなり一家で塩竈に移り住んだ。茂雄は当時11歳であった。

茂雄は昭和26年、父菊次郎と同じ慶応義塾大学を卒業後、東京滝野川の国税庁醸造試験場での講習を経て、昭和27年、家業を継ぐため戻ってきた。その時、父菊次郎は息子が帰って来るのを待ちわびていたかのように浦霞の経営を茂雄に託す。茂雄は昭和31年、専務取締役に就任する。




その後、酒造りは重一が、経営面は専務の茂雄が取り仕切って行くこととなる。

重一が杜氏となった昭和35年頃は酒屋にとっては厳しい時代だった。その頃のこと、そして東京で評判を得始めた頃のことを茂雄は次のように話してくれた。文中( )は筆者注。

「その頃の世の中の環境は酒屋にはなかなか厳しかったんだよね。それに、地方の我々の酒は本数的には少ないし。かなり良い酒を造ってたから地元での評判は良かったんだけれども、全国的にはね......。東京あたりに持って行ったって、そう簡単にはいかなかったんだ。その頃は大手の酒がじゃんじゃんテレビで宣伝してて、宣伝で売ってたから。そして自分のところで造ってる酒だけじゃ足りなくなって買い酒(注1)をして、それを自分のところの銘柄で売って、さらに宣伝費をかけてと、どんどん伸びていったんだよ。

注1 買い酒
桶買い。地方のメーカーの酒を大手メーカーが買入れること。
買い手の蔵で他社の酒とブレンドされ,買い手の銘柄として販売される。

地方の我々の蔵は規模も小さいし、宣伝能力も効果もなかったから、泣かず飛ばずでずっといたわけだ。地元ではピシッとした酒を出してるってことで評判は得ていたんだけれどもね。

ところが、昭和45年から50年にかけて東京、関西あたりの酒通の人達が『大手の酒は銘柄が違っても味はみんな同じで面白くない。地方にしっかりとした酒、まじめに造ってる酒屋、結構良い酒がある。そういう酒を我々は飲もう。評価しよう』ということになって、地酒がいくらか出始まったんだよね。大手の酒は買い酒率が高かったからどこも同じような味に感じたのかもしれないね。

そして、丁度その頃、地方の小さな蔵が新聞のルポとか、それから地酒の本なんかに取り上げられ始めたんだよね。例えば取材陣が『地方の酒を取材に行くんだけど、どこの酒屋がいいですか』なんて醸造試験所あたりに聞きに行くわけ。そうすると吟醸造りでは『浦霞が良い酒を造っている』と紹介してくれて、うちのほうへ取材へ来るというわけなんだ。
それから『越乃寒梅』とか『一人娘』とか地方の蔵が取材されて、だんだんと少しずつだけど大手の酒よりも地方の酒のほうが良い酒があると東京で評判になってきたわけなんだ。
 
浦霞は前にも話した通り、地元では昔から信用があったので、いつも足りないぐらいだったんだけれども、昭和47、8年だったかな?東京のある問屋さんが、『いつまでも大手の酒ばかり売っていてもしょうがない。地酒がブームになり始めたんで、地方の変わった酒を売りたい』とビール会社かどこかの紹介でうちに飛び込んできたんだよ。うちとしては地元でもう手一杯。製造能力もそれほどない。だから『無理に売る必要はない』なんて言ってたんだよね。

ところが将来を見越せば、東京あたりはどうしても必要かなということで、東京の問屋さんに『ある程度酒を出しましょう』と。だけども『うちは製造能力はいっぱいだから、量はどうでもいいから地道に売ってくれ』と。『酒好きの人に飲ませるための酒なら大いに出したい。その程度で結構だから』ということでそれで東京出しが始まったわけ。そして、東京あたりの酒通の人達が『これはうまい』と言って、それで徐々に浦霞の名前が広まってきたんだな。」

茂雄は東京の問屋と取引する際、「酒の管理はしっかりやって欲しい。」「しっかりとした品質管理をしている酒販店を選んで欲しい。」という条件をつけた。地元では出荷され酒がどのように扱われているか自分の目で確認することができる。しかし、東京では確認することはできない。そこには、重一が手塩にかけて造った酒を品質を損なうことなく、消費者に美味しく飲んで欲しい、大事扱って欲しいとの思いがあったのだろう。

その後、浦霞は東京のデパートでも扱われるようになった。

また、浦霞の名が広まっていった理由の一つには仙台が蔵の近郊にあるという地の利もあった。仙台は大手の企業の支店が多い。浦霞は地元では昔から評判が良かった。浦霞を飲んだ支店長クラスが「これは旨い」と転勤先でも浦霞を飲むようになる。こうして浦霞は徐々に全国的にも名前が知られるようになって行った。

名前が知られるようになった結果、浦霞は慢性的な品不足に陥った。茂雄はお客様にご迷惑をかけては申し訳ないと三期醸造への取り組み、そして平成に入り矢本蔵の建設に取り組んでいくことになる。(三期醸造、矢本蔵建設につてはまた別の機会に。)

page15_2.jpg 昭和39年度の仕込仕舞(昭和40年3月撮影)
最前列 右から3番目が茂雄 その左隣が菊次郎 菊次郎の左隣が佐五郎

 

 

 

 

 

 

page15_3.jpg 昭和46年度の仕込仕舞(昭和47年3月撮影)
最前列 左から3番目が茂雄 その右隣が菊次郎 一人おいて重一
この年の12月に茂雄は株式会社佐浦 代表取締役社長に就任した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その間茂雄は、昭和47年12月に株式会社佐浦の代表取締役社長に就任、また、昭和48年には「浦霞禅」を世に送りだした。(浦霞禅誕生の物語は次回お話します。)

浦霞が売れてきたことを茂雄は全てタイミングだったと言っていた。

「僕が親父から受け継いだことは酒が造りやすい環境をつくるということ。それから、良い酒を造るためには少々原価は高くなっても米の精白は高くしたほうが良いということ。高精白の米で酒を造るのがより良い酒を造る条件の一つだね。うちの米の精白率は全国でも高いほうなんだよ。

注 精白度60%とは米の外側60%を取り除き、残りが40%の白米。
精米歩合40%は精白歩合とは逆に米の外側60%を取り除き、残りが40%の白米。
同じ%でも精白は取り除いた%、精米は残った%を表している。

昭和20年、30年頃、うちは米の精白をほかの蔵よりも結構高くしたんだ。だからはっきり言って、その頃はあまり儲からなかったんだね(笑)。 経営的にはあまり大したことないんだよ。とんとん......、赤字じゃないけどあまり利益は出なかったんだ。酒造りは趣味でやっていたようなもん(笑)。親父も酒は下手で、素人だもんね。あまりそろばんをはじかないで佐五郎杜氏に任せた。
ところがそれが後になってよかったんだよ。その頃はうちみたいに少々原価が高くても良い酒を造って、卸し、小売というしっかりとした縦面での流通を行い、そして、絶対に値段を崩さずきちんとやっている蔵。
それから、問屋さんとか小売り屋さんにリベートを払い、原価はすごく安くして、その分を宣伝費にかけて量をどんどん増やしていった大手などの蔵の二通りあったんだ。
うちの場合は、量的にはそんなには伸びなくてもやっぱり良い酒を、きちんとした酒を出そうということが前提に来てる。だからその頃は経営的にはあまり利益はなかった。

ところが、今度はリベートとか値引きしてもさっぱり売れなくなってくるんだな。例えば問屋さんにリベートとか出すでしょ。問屋さんは今度は小売り屋さんにリベートを出す。そうすると問屋さんには何の利益もないんだよ。リベートを小売り屋さんに出すからね。ところが今度は浦霞を売ると儲かると。必要なマージンを確保できるからというわけ。問屋さんも利益のない酒よりは浦霞の酒を売ろうとする。それが浦霞が増えてきた原因の1つじゃないかな?そしてそれが地酒にタイミングよく乗ってきたということなんだと思う。世の中はタイミングだから。今まではタイミングにうまく乗ってきたということだね。これからはなかなかそうもいかないから。その辺はうちの息子(現社長 佐浦弘一)に任せるということになってきたわけだ。」

そして、これからの浦霞の挑戦について次のように話してくれた。

「これから造り酒屋はいろいろ厳しくなるからね。今までは順調にきたけれども、これからは今まで通りに行くとは限らない。だからその辺は常に世の中を十分に注意しながら、日本酒としてどういうふうにいくかいろいろ考えないといけないだろう。
その辺にある程度うちの息子(現社長 佐浦弘一)が気付いて、このごろ少し外国にアプローチしている。また海外である程度評判となれば、それが逆に日本に戻ってきて話題となるだろうからね。実際にこれからの販売は輸出も結構ばかにならないと思うんだよね。

例えば、今、アメリカあたりで和食が健康食としていくらかずつだけど増えてきてる。外国の人は、和食の場合はやっぱり日本酒にも結構興味を示すんだよね。
食べ物と飲み物って形から言えば、中華料理と老酒とか、それからフランス料理とワインとか。だいたい食べ物にはあう飲み物があるんだよね。日本人ばかりだ、何でもいいのは......。(笑)
だけど外国はそうでもないから。そういう意味では日本酒もある程度海外へ。ヨーロッパ、アメリカあたりに結構見込みがあるんじゃないかな。

それから基本的には良い酒を。きちんとした酒を造り、絶対に安売りした商売はしないということ。これは当たり前の話だけどね。

それ以外には、ある程度日本酒の新製品というか......。例えば女の人がすごく飲める酒も考えないといけないだろうし。それからアルコール度数の低い、低アルコールの酒も日本酒として考えなきゃいけない。一応、考えてはいるけれどそう簡単にはいかない。その辺の研究もこれから。研究というか、もうそろそろ手を付けて実際にやらなければならないということだな。(弊社では平成13年12月から低アルコール純米酒「萩の白露」を発売している。)

浦霞としての基本的な酒はやっぱり高品質な従来の酒。新製品とかその他の酒は、枝葉じゃないけども、いくらかはやっていかなきゃならないけれども、基本的には従来のきちんとした酒。これだけは絶対にやっていかなくてはならない。これは絶対。増えようとも減らないつもりでいるから。ほかの酒屋がだめになってもうちだけはちゃんとそういう酒をやってるからいつまでも......(笑)。

そういう基本的な考えはあるけれども、それだけでは......。やっぱり新製品とか、ちょっと変わった酒も手掛けていかなきゃならない。そういう時は「浦霞」の名前を使わないで別な名前でやらなきゃいけないかなとは思ってるけどね。」

浦霞の名を全国に知らしめた茂雄も平成14年7月13日、13代当主佐浦弘一に浦霞の未来を託しこの世を去った。亡くなる一週間前に、「ぼくの人生に悔い無し。弘一君、後は頼む。」とメッセージを残したという。

※茂雄への聞き取りは平成13年に行いました。