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5.浦霞禅誕生物語

浦霞の歴史

浦霞禅誕生物語

Vol.16

浦霞禅は佐浦茂雄が京都妙心寺の僧侶と話をしていた時に思いついたという。

その時のことを茂雄は生前、次のように話していた。

「浦霞禅を売り出したのは昭和48年。うちは吟醸タイプの酒が得意なんだけれども、世の中がそういう酒を求めていなかったからなかなか出せなかったんだよね。それで鑑評会用に造った吟醸酒を一般のお酒に混ぜて出していたんだ。もったいない話だよね。だから、以前から吟醸酒を一般向けにリーズナブルな価格で出したいという思いはあったんだよね。せっかくいい酒造っても一般の酒と混ぜてたんではあまりにももったいないということでね。昭和42・3年頃からだったかなぁ。


その時いろいろ話してね、『パリの喫茶店で禅画が壁にべたべた貼ってあるんだ。』って話になってね、その話がなかなか面白いもんで、『じゃぁ浦霞禅というお酒を造るからそれをパリに持っていって売り込んできて下さい。』なんて冗談を言ってたんだよね。よくよく考えてみるとこれが悪くないアイデア。いい酒を四合びんに詰めて、それを浦霞禅という名前で是非売り出そうということになったわけなんだよ。

それで、具体的に考えようと思ったのが昭和47年頃。松島瑞巌寺で修行して、その大本山である京都妙心寺で出世した僧侶がうちに来た時なんだよね。

松島瑞巌寺とは茂登おばんつぁんが水道を寄付したり、昔からいろんな関係があるから、すごく懇意にしていただいていてね。瑞巌寺は臨済宗で妙心寺派の寺院なんだよ。妙心寺は京都花園にあって臨済宗妙心寺派の大本山。
その僧侶は秋田徳重さんと言ってね、昔からうちを懇意にしてくれてた。そしてうんと酒好きなんだよね。だから偉くはなったんだけれど瑞巌寺にお里帰りした際には必ずうちによって、酒飲みながら僕といろいろ話をしていくんだよね。

それである時、『今度フランスのパリへ行くんですよ。』って得意気になって言うんだよね。『うんうん。遊びに行くんでしょっ。』て言ったら、『いや禅の布教に行くんだ。』って言うんだ。嘘か本当かね。(笑)

そして秋田徳重さんといろいろ相談してね、その時の妙心寺の管長の梶浦逸外老師に頼んで禅の文字を書いて頂くことにしたんだよ。なかなか勢いのあるいい字だよね。ラベルには禅画を使いたいから、布袋さんの画を秋田徳重さんの飲み友達の淡川康一という京都の禅画家に頼んで書いてもらった。それで禅の文字と禅画を組み合わせてラベルと化粧箱作ったんだよ。化粧箱も最初は布袋さんの画を和紙に印刷し、それを化粧箱にかぶせるようにして、色紙としても使えるようにしたんだよね。

 

page16_1.jpgpage16_2.jpg 梶浦逸外老師の禅の書と淡川康一氏の布袋画

 

そのようなことで発売したんだけれども、ある年よくよく考えてみたら、われわれは松島の瑞巌寺と懇意にしてる。だけれども、松島の老師の頭越しに本山の管長にこの禅の字を書いてもらってたんでは、僕としてはちょっと具合悪いわけだ。それでしょうがないんで、梶浦逸外老師も亡くなったことだし、『二番煎じで申し訳ないけれども浦霞禅という字を書いてくださいよ』って瑞巌寺百二十八世住職加藤隆芳老師(号 五雲軒)に頼んで書いてもらったものを今、使ってる。だから今のは2代目なんだよ。」 

 

page16_4.jpgpage16_3.jpg 加藤老師の書

 

肝心の中身はと言うと茂雄は高品質のものでなくてはならないと考えていた。当時吟醸酒は鑑評会用のみで殆ど市販されることはなかった。茂雄は高品質のものをと考えたのは良いが、吟醸酒のようなものを出して果たして消費者にうけるのだろうか。吟醸香は嫌われないだろうか。常温で流通されたら変質しないだろうか等といろいろ思い悩んだと言う。茂雄はその時のことも話してくれた。

「中に入れる酒については高品質の物を念頭に考えたんだ。そして、米は広島の八反錦を高精白し、程々の低温で健全発酵させた吟醸タイプで、吟香は程よく、味はすっきりと淡麗で、しかも澄んだ味の酒を目標に仕込むようにと平野重一杜氏にお願いしたんだよ。浦霞禅は最初は醸造アルコールが添加してある吟醸酒で出したんだよね。

浦霞らしい淡麗な味わいっていうのは、うち独特の造り方なんだよ。お米を吟味し精白をある程度高くして、それに合った吟醸造りをする。それによって自然と香りが出るんだよね。つまり低温発酵だね。発酵温度をうんと抑えながらもろみ期間を延ばすんだよ。酵母が生きるか死ぬかのギリギリのところでずっともっていくと酵母菌が良い香りをつくり出すんだよね。低温で発酵させると下手するとダメになっちゃうからね。それが温度調節の難しいところで杜氏の苦労する部分だし、また出来上がると楽しみなところでもあるわけだ(笑)。

瓶の大きさはね、冷やして飲んで貰うことを前提にと考え、冷蔵庫に入る720ml瓶にした。720mlだと1本入りでも2本入りでも手頃な大きさで、持つにも億劫じゃないし、贈答用としても体裁がよいからね。
価格は720mlで1,500円(現在は税込み 2,268円)で特級で出したんだよ。それである時、試しに原価計算してみたら赤字だったんだよね。それで、やむを得ず特級課税から1級課税に変更して酒税差で原価の補填をしたんだ。」

茂雄は浦霞禅発売に際し、商品広告はテレビスポットの雨ダレ式広告では効果は無いと考え、「酒好きの人に一度飲んだら気に入って貰える酒」を目標に「丁寧に造って丁寧に売る」という考え方で気長にやってゆく方針を立てた。
その方針が功を奏し、初年度は2,000本そこそこだった販売数量も5年後には20,000本の出荷となった。

「それで発売したのはいいのだけれど、やっぱり吟醸タイプの酒は一般の人の嗜好には合わなかったんだよね。だから最初は売り上げ的には大したことなかったんだよ。2,000本程度だったかな。だけど、なかなか体裁もいいもんだからよく珍しがって買っていく人はいたね。それに贈り物としても丁度よかったもんだから、貰った人がなかなか旨いということでね、うちに直接注文がきて、少しづつ飲まれてきたと言うわけなんだよ。いわゆる口コミで宣伝になったということだね。

それが地酒ブームのちょっと前だったかな。その頃は大手のわりと味の濃いどちらかというと甘いお酒が酒の味として標準だったんだよね。それでいわゆる吟醸香のあるすっきりとした酒は水っぽいとか、薄いとかって一般的には言われてた。けれども、酒好きの人の中にはこういう酒も好きな人もいたから、だんだんと吟醸の味を覚えていただけたと。そして東京あたりの酒好きの人達が『こういう酒を飲んでみろ』『吟醸という酒はいい酒だ』『一般の甘ったるい酒よりすっきりしていていい』と他の人にも勧めてくれてね。それで浦霞禅の名前を覚えて貰って、除々に広まっていったというわけなんだね。

そのうち今度は地酒ブームが本格的に始まって、勢いがついてくるようになったんだよね。さっきも話したとおり、最初は2,000本そこそこ。それが、だんだん前年比で10%、20%増しくらいになっていったんだ。一生懸命吟味して造るから、大量生産できないということもあって、前年比でプラス10%~20%の量くらいしか増やしていけなかったということもあるんだけどね。それで、人気のほうが急に出てきたもんだから品物のほうが足りなくなってね。うまく波に乗ったって言うかね。

その頃の食糧事情も関係したのかな。
昭和20年30年頃には食べ物も一般にろくなもの食べてなかったから、せめて酒だけはアルコール分だけあって味の濃い酒がいいってことだったんだよね。昭和40年を過ぎてから食料事情も良くなってきたから、やはりうまい酒とは淡麗なすっきりした酒。あまり味の濃い酒は良くないってことになってきたんだよね。」

また、茂雄は浦霞禅が人から成功したと言われるとしたら次のようなことかなと話してくれた。


(1)大量販売有名銘柄酒万能時代から、地方の個性的な酒にも消費者の目が向き始められた頃に、タイミングが合ったこと。
(2)吟味したものであれば価格はそれほど気にしない高品質指向が消費者に芽生え始めた頃と販売が
時期的に合ったこと。
(3)原価が少々高くついてもより良い酒質を目標にしたのは勿論のこと、流通段階における品質保持にも出来得る範囲内で配慮し、販売量はそこそこでも余り気にせず、じっくり気長にやっていったこと。

 

page16_5.jpg     発売当時の浦霞禅

中に詰める酒も時代の流れにより昭和50年代半ばには純米吟醸酒となる。それまでは醸造アルコールを添加した吟醸酒だった。その時のことを平野重一はこう言う。「最初の浦霞禅は醸造アルコールの入った吟醸酒だったんだよね。社長(佐浦茂雄)から吟醸酒そのものを市販化したような感じで売りたいっていう話があってね。その当時の吟醸っていうのはせいぜい精米歩合50%だったから浦霞禅も50%。ただし出品酒は日本酒度が+4位、アルコール度数が17.8度位で出していたものを、飲みやすくするために日本酒度は+2位かなぁ。アルコール度数は16.いくつくらいにしたんだっけかなぁ。こんな感じで売ったのしゃ。それが受けたんだよね。50%の精米の酒は他では出してなかったしね。それがだんだん世の中で純米酒が売れ始めてきて、営業の人たちから、『最高のものにアルコール入ってると売りづらい』ていう声がでてきたんだよね。それで、純米酒が売れ始めのころだったから、純米酒でつくろうかってなったんだ。でも消費者は浦霞禅はアルコール入っているのに慣れてるっちゃ。それを崩さないような浦霞禅を出さないとないすぺ。だからそのころはもう成分とのにらめっこだったね。並大抵でないわけさ。だからああでもない、こうでもないっていろいろやったわけさ。やり方を替え、品を替えて。この時が一番、苦労したね。」

page16_6.jpg    現在の浦霞禅

 

浦霞禅が誕生したのはフランスへ輸出してはどうかと考えたのがきっかけだったが、当時は輸出の手続きが煩雑だった為、フランスへの輸出はかなわず(現在はフランスへ輸出しています)、結果的に国内向けに当時あまり一般には市販されてなかった吟醸酒を浦霞禅という酒銘で発売することとなった。

 

そして、佐浦茂雄のアイデアと営業力、平野重一の技術力が相まって浦霞禅は浦霞の看板商品へと成長していく。