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7.三期醸造を目指して、そして矢本蔵建設

浦霞の歴史

三期醸造を目指して、そして矢本蔵建設

Vol.18

各種鑑評会で入賞するようになり、また、浦霞禅が売れ始めると冬期間だけでの製造では市場への供給が追いつかなくなる。浦霞を愛飲してくれるお客様に迷惑をかけてはいけないと、茂雄は重一に相談し、秋から春にかけての三季醸造を計画する。三季醸造を考えたのは良いが、何をどうすれば良いかがわからない。そこで、茂雄と重一は暖かいところでの酒造りに成功したハワイのホノルル酒造へ見学に行くことにした。

ハワイへは明治より多くの日本人が移住していた。日本酒は移住した人達の要望により日本より輸入されてはいたが、関税がかけられ高かった。高い輸入酒よりも、現地で造った方がよいのではないかと設立されたのがホノルル酒造だった。

ホノルル酒造には酒質の向上の為に招かれた二瓶孝夫氏が技術者として従事していた。二瓶氏はホノルル酒造の技師をするまでは東京滝野川の醸造試験所(現在は独立行政法人 酒類総合研究所として東広島市へ移転しています。)で技師を務めており、二瓶氏と茂雄は茂雄が昭和26年に醸造試験所に研修に行った以来の旧知の間柄だった。その縁でホノルル酒造へ見学に行くこととなった。二瓶氏はホノルル酒造へ就任後、3年ほどで従来とは比べものにならないほどの酒質向上を果たしていた。従来の問題であった暖かいハワイでの酒造りは、仕込蔵を冷房することにより克服し、一年中酒を造ることを可能にしていた。

 
余談ではあるが、昭和62年、ホノルル酒造製氷会社の副社長を務めていた二瓶氏はホノルルで「日本酒文化」を日本以外の国に紹介することを目的として活動する有志の会「国際酒会」の顧問に就任した。この会は2001年より「全米日本酒歓評会ージョイ・オブ・サケ」を開催し、浦霞も金賞を何度も受賞している。

ハワイまで行った茂雄と重一だったが、結局、中をみせてはもらうことはできなかった。暖かい土地での酒造り、工夫に工夫を重ねた結果の酒造りだったのだろう。簡単には教えることは出来なかったのかもしれない。

その時のことを重一は次のように話してくれた。
「ハワイのホノルル酒造まで行ったんだけど、入り口で終わりだったんだよね。『今、入れてくれるかな』『今、入れてくれるかな』と思ってたんだけど、結局、中には入れなかったな。シャーベット状の酒とか、いろんな酒は見せられたんだけどね。今、考えると、日本なら冬にならないと酒造りが始まらないって時なのに、あの暖かいところで酒造りしてたんだから、冷凍機とかそういうものを工夫に工夫を重ねてだったんだろうね。だから、ちょっとやそっとじゃその技術の門は開かなかったってわけさ。ただ、冷房、冷蔵、冷凍機は利用してるっていうことは分かるんだよね、氷がついてるパイプが天井に見えてたから。『ああ、これはやっぱり冷凍機の利用だな』っていうヒントは得たんだよね。帰ってきてから、社長(茂雄)に『あれ、どう思う』ってようなことを聞かれて、『僕もなあ、蔵へ入りたいとは思ったんだけれども無理もできないし......。まあ、とんつぁん(杜氏)だったら、外観見たらだいたい分かるんじゃないかなぁ』っていうような感じでいたって言うんだよなぁ。だからおれも頭、痛めたのさあ。ハワイまで連れて行ってもらったんだから、結果出さなきゃいけないしね。


それで、ハワイのような暑い所で酒を造るには冷凍機の利用しかないってわけで、クーラーもそろそろ出始めたころだから、あれを大きくすればいいんだっていうようなことをいろいろ考えたんだよね。塩釜には魚市場なんかに冷凍庫がいっぱいあったからね。吟醸酒なんかも魚市場の冷凍庫に預かってもらってたりもしたんだよ。でも、冷凍庫に預かってもらってたら凍っちゃってな(笑)。バチバチ割れて。これではだめだっていうわけで今度は廊下のあたりに入れてもらったんだよね。ところが今度は、魚入れるたびに『邪魔になるからそっちに行け!』てなもんで、たまに行ってみると置いた場所にないんだもんな。とんでもないところに置かれてたりしてさ。そういうことで、冷凍庫を見ていたからね。だから冷凍機利用しているってことはおおよそ見当はついてたのさ。今だったらどこでも冷凍設備なんかを使ってるから、どのくらい経費がかかるのかなんてことはすぐわかるのだろうけど、そのころは出始めだすぺ。細かいことなんか全然わかんないんだよなぁ。それで、冷凍設備を使用するとどの位の設備が必要で、経費がどのくらいかかるかなんてことを電機関係の技師さんにいろいろ相談したんだよ。それで、仕込蔵全体を冷凍設備で覆うと膨大な能力が必要だから、醪が入っている部分、つまりタンクの胸から下を覆うというようなことを考えたんだよ。それでそれを技師さんに話したら、やっぱプロなんだなぁ。1トンの米を発酵させて必要なアルコール度数になるようにするには発酵熱がどのくらい出るかなんてことを計算で出したんだよ。いかに冷凍設備を取り扱ってる人とは言いながらも、やっぱり商売は商売だなと思って感心したね。出てきた見積もりの金額にもびっくりしたなぁ。タンクの囲いについては室屋(むろや)さんに頼んだんだよね。普通の大工さんでは断熱材の使い方がまったく一般の民家建てるようなやり方でやるからだめなんだよね。麹室を作る人なら、その断熱効果を十分に生かせるっていうわけでね。こっちも結構かかったんだよね。」


見積もりはビックリするような金額ではあったが茂雄はO.K.を出した。結果、仕込み蔵自体は断熱効果があるので、タンクの胸から下を囲い、その中を空調冷房しタンクの外から冷やすようにした。と同時に、醪の中には冷却機を設置し、内と外から発酵温度をおさえながら長期醗酵させることに成功した。


茂雄の決断と重一のアイデアにより、12月から2月までの冬期ばかりではなく、秋や春にも酒造りが出来るようになり、蔵人も冬だけの短期労働ではなく、年間雇用ができるようになった。にも拘わらず、市場での品薄感は拭えなかった。商品が無い無いばかり言っていてはお客様に迷惑ばかり掛けてしまう。茂雄は第二蔵の建設を決断する。


まず考えたことは、酒造りを辞めた蔵を譲り受けることができないかと言うことだった。候補として上ったのが今の宮城県登米市の休業中の蔵。蔵元に話を持ちかけたところ「敷地を町へ寄付する考えでいるから売るようなことはしない」と言われ断念。次に見付けたのが宮城県亘理町の蔵。そこはあまりにも荒れていて酒造りには不向きと断念する。それと平行して重一は他の蔵を見学し、茂雄に報告する。報告を聞いた茂雄は「もう1ヶ所蔵を増やすとすれば、人手とかいろいろな面を考えて、多少は合理化というものも考えなければならない」と考え始める。今まで考えていた、既存の蔵の利用ではなく、合理化も多少視野に入れた、新しい蔵を建てることを考え始めた。


まずは、公休有地や工業団地がないかと調べた。現宮城県東松島市の小野で土地を売りに出しているという情報を入手。しかし、その土地、売る、売るという話はするが、なかなか整地をしない。1~2年待ったところで痺れを切らし、再度土地をがないかと探す。そこで見付けたのが矢本町(現 東松島市)の現在の矢本蔵の場所。その土地で平成6年に矢本蔵が稼働する。


矢本蔵では本社蔵である程度の経験を積んだ者が中心となり、酒造りを行った。とは言っても、重一は酒造りが1年経つまではどんな酒ができるのか、心配だったという。
矢本蔵ができるまでは、茂雄や重一は幾つもの蔵を見学し、どのように合理化を図っていくかいろいろ検討した。そして、清潔な環境造り、品温管理のための空調・冷房設備をも心がけたという。最終的に蔵の建設を決定したのは茂雄だったとはいえ、方針を決めたのは重一。1年目の酒ができるまでは重責があった。


1年目はまあまあの酒ができた。2年、3年と続けていくうちにだんだんと良い酒ができるようになった。吟醸も良い酒ができた。重一は納得できる酒ができ、安心したという。