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2.平野重一編

浦霞の歴史

頭(かしら)の頃

Vol.5


page5_1.jpg   南部杜氏協会協会長
  の頃の平野佐五郎

重一が頭(かしら:杜氏の補佐役)になった頃、蔵には多いときには20人を越す蔵人がいた。杜氏経験者も5人いた。杜氏になったのはよいが、まだ酒造りに自信が持てないので勉強させてくれと来た者もいた。それは皆平野佐五郎を慕ってのものだった。平野佐五郎の酒造りは天下一品、そして慕う者も多かった。中にはどこかの蔵で失敗してきた者、蔵の主人とけんかしてきた者もいた。その頃、平野佐五郎は南部杜氏協会の協会長として忙しく各蔵を飛び回っており、実質は重一が浦霞の酒造りを指揮していた。自分よりも年上の杜氏経験者が何人もいて、重一はやりにくかったと言う。

酒造りに関してもよく意見を戦わせた。重一には頭(かしら)やっているというプライドがある。相手には杜氏をやってきたというプライドがある。意見が対立し、重一が強引に押し切ると陰で「なぁに、あのぶっかれじゅっこやろ!」と言われた。どういう意味かと重一に聞くと「壊れ重箱」と言う意味だと教えてくれた。重一の生まれた故郷岩手県では壊れてることを「ぶっかれだ」と言う。重箱の重と重一の重をかけて「ぶっかれじゅっこ」。「だから、いろいろ意見が合わなかったりちょっと口論すると、陰で「なぁに、あのやろう。ぶっかれじゅっこのくせに!」。「『壊れ重箱のくせに』って意味さ。そうだったなあ。それから、ちょっと年配の人で、俺が尊敬するような人は『重(じゅう)、重(じゅう)』って言って可愛がってくれたんだよね。」と懐かしそうに語ってくれた。

重一は、そんな中で人とのつきあいを覚え、人間としても成長していった。

他の蔵で今までの杜氏が来られなくなったとか、杜氏がどうしても家に帰らなければならなくなったとかということがあった時、その20人の蔵人の中から杜氏として行くようになった。また他の蔵へ入る時、履歴書に「浦霞」と書くと入る時の評価が良かったという。今にして思えばそれは一種の杜氏養成所だったのではないだろうか。

平野佐五郎については別の章で話をするが、前述した通り、平野佐五郎は南部杜氏協会の協会長をやっていた。そして当時の社長、佐浦菊次郎より「よその蔵もみてもよろしい」との許しを得ていた。そのあおりを受けたのが重一。浦霞の酒造りの責任も重一が持たなければならなくなる。

本来は杜氏がやるべき帳簿付けも重一がやらなければならなかった。当時、税務署は週に1回は調査に来ていた。それも抜き打ち的に。その為、現物と帳簿を常にもあわせておく必要があった。今日は疲れたから帳簿は明日付けようなどということはできなかった。帳簿付けは昼の仕事を終えた夜に行っていた。遊びにも行けなかったという。

重一が頭をやっていた頃、昭和31年から33年にかけて毎年全国清酒鑑評会で金賞をとった。それに目をつけた茨城県の蔵元の社長。佐五郎に杜氏を世話して欲しいと言ってきた。佐五郎の相談を受けた当時の浦霞の社長、佐浦菊次郎は重一を佐五郎の後継者へと考えていたこともあり「武者修行という意味でも良いだろう」と重一を2年間の約束で茨城県の蔵元へ出向させることとした。

茨城県の蔵元で初めて杜氏として腕を振るうこととなった重一はその蔵元の酒をみるみる向上させていったという。