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2.平野重一編

浦霞の歴史

杜氏になって

Vol.6


page6_1.jpg 茨城の蔵元近くの海岸

昭和33年11月。茨城県の蔵元で杜氏として酒造りをすることとなった重一は若い蔵人を連れ蔵入りした。当時、茨城県の蔵元の社長は思い通りの酒ができず悩んでいたと言う。蔵入りして重一がまず最初にやったことは、そこでの酒造りの何が問題なのかを解き明かすことだった。いろいろと調べた重一は対策を講じた。結果、その蔵元の酒はみるみる向上していった。

茨城県の蔵元での最初の上槽(お酒をしぼること)時には、社長が利き猪口を持って酒が流れ出るのを楽しみに待っていたと言う。

昭和34年1月、メートル法施行。仙台国税局管内の浦霞では施行までに猶予があったが関東信越国税局管内の茨城県の蔵元ではすぐに切り替えなければならなかった。重一は尺貫法からメートル法へ切り替えるべく出向先の蔵元の全てのタンクの容量を計り直した。

大小何十本とあるタンクの計測。これがまた大変な作業だった。それに併せて税務申告も変わってくる。尺貫法の場合はタンクの酒の容量を1分(約3ミリ)単位で税務申告していたものが1ミリ単位での申告となる。酒の量として5升程度の誤差が2升程度の誤差までしか許されなくなる。原料米もメートル法になり体積での取引から重量での取引に変わる。その結果、それまでは実入りの良い米も悪い米も同じ枡量での取引だったものが、重量での取引に変わり、取引に正確性が出てくることとなった。

タンクの容量の計り直しは重一が昭和35年に浦霞に戻って来た時にも浦霞でもう一度行うこととなる。茨城県の蔵元で既にメートル法を経験していた重一には手慣れたものだった。

2年間の約束で茨城県の蔵元に酒造りに出ていた重一だが、夏場は浦霞に戻り酒の管理や瓶詰め作業等を行っていた。そしてまた冬が来ると茨城県へ行き酒造りをした。

重一が茨城県の蔵元で酒造りをするようになって、その蔵の酒が各種鑑評会で入賞するようになった。それに気を良くした茨城県の蔵元の社長は2年の約束にも拘わらず、重一をこのまま杜氏として欲しいと言ってきた。困ったのは当時の浦霞の社長佐浦菊次郎。重一を佐五郎の後継者へと考えていたからだ。そこで菊次郎は茨城県の蔵元の社長と話し合い、重一は浦霞に戻ることとなる。

浦霞に戻り、大杜氏平野佐五郎の後を引き継ぎ杜氏となった重一のプレッシャーは相当なものであった。

佐五郎は顧問としてまだ浦霞にいることはいたが、南部杜氏協会の会長職や各蔵を回って弟子達の指導に忙しく、酒造りには殆ど拘わっていなかった。酒の味が変わったとか何かがあると「杜氏が変わったからだ。」とも言われかねない。そんなプレッシャーをはねのけ重一は各種鑑評会で入賞を重ねて行く。

重一と佐五郎の間にこんなエピソードがある。佐五郎が南部杜氏協会の会長をやっていた頃、重一は全国の南部杜氏達が腕を競い合う「南部杜氏自醸清酒鑑評会」で首席をとった。その表彰式でのこと。壇上で表彰するのは会長をやっている佐五郎。受けるのは重一。叔父甥という関係もあり、重一が周囲への配慮から登壇せずにいると、会長としてのプライドのある佐五郎は壇上へ上がれと手招きする。重一はここで良いと首を横に振り、頑として壇上へ上がらない。その様子が滑稽に見えたのだろうか、2人の関係を知っている場内の人々は大爆笑だったと言う。結局は佐五郎が折れ、脇の方で表彰を受けた。それもまた笑いを誘った。会長としての立場で筋を通す佐五郎と周囲への配慮を気にする重一。叔父甥だからこそのエピソードである。

その後重一は師である佐五郎をも凌ぐ名杜氏へと成長していく。その師である平野佐五郎とはどのような人だったのだろうか?次は平野佐五郎について振り返ってみたいと思う。