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ゴルフ場の歴史

ゴルフ場の歴史

草創期

仙臺ゴルフ倶楽部の創立

 昭和5年、佐浦菊次郎(後の仙塩ゴルフ倶楽部初代理事長)、一力次郎氏(河北新報社社長)、早川退蔵氏(宮城貯蓄銀行常務)ら仙台中心のゴルフ愛好者によって、仙台市内台原地区に小規模ながら6ホールのゴルフ場が建設された。しかしながらサンド・グリーンの貧弱なものであり、何よりも第二師団の実弾射撃場に隣接し、時には流れ弾が飛んできかねない危険な場所であったため、理想的なゴルフ場建設の希望をもち、候補地視察を始めるようになった。

仙臺カントリー倶楽部創設に関わった人々(東京目黒書店発行 月刊「ゴルフ」昭和9年1月号より)

  • 佐浦菊次郎
  • 早川退蔵氏
  • 一力次郎氏

仙臺カントリー倶楽部の誕生

 そして、昭和8年に候補地として探し出したのが塩竈市上ノ原地区(現在の浦霞コース)の丘陵地だった。県所有の苗圃地のほか個人所有地であったが、所有者より協力を得られることとなり、ゴルフ場建設を期して「仙臺カントリー倶楽部」が組織され、初代会長伊達興宗氏、理事長一力次郎氏、キャプテン佐浦菊次郎らの面々での発足となった。
 昭和9年に、当時のアマチュアゴルフ界の第一人者赤星四郎氏にコースの設計を依頼し、建設工事が着手された。ブルドーザーなどの無い時代、全くの手作業にての工事だった。芝やバンカー用砂の購入等地上設置材料費が膨大なものとなり、資金不足が生じた。結局、第一期工事としてとりあえず5ホールを建設、臨時のつなぎ役のショートホールで結び6ホールとして3回廻り、18ホールで計算する方式となったが、将来は3ホール追加し9ホール、最終的には18ホールの堂々たる構想をもった東北地方初の本格的ゴルフコースが完成した。
 昭和10年のことであった。東北のゴルフの歴史はこの時始まった。

開場当時の仙臺カントリー倶楽部

外国人観光客向けに昭和10年に発刊された「How To See Matsushima And Environs」に仙臺カントリー倶楽部が写真入りで紹介された。「コースからは松島や塩竈の町並み、遠くには金華山の雄大な景色が楽しめる」と記されている。
アドレスしているのは佐浦菊次郎と思われる。

受難期

戦争と仙臺カントリー倶楽部の解散

 しかし、時代は大きく変わっていく。昭和12年7月、日中戦争勃発。さらに第二次世界大戦が拡大するにつれ「全国民一丸となって国難に当る」世の中となり、ゴルフ場を含む隣接地一帯に、厚生省管轄の職業協会による北部訓練所の建設計画が定められ、ゴルフ場の設備一切が強制買上げとなった。昭和19年、仙臺カントリー倶楽部は解散した。
 その後、計画に基づき訓練所の建設がすすめられたが、昭和20年8月の終戦によりその途上で中止となる。

米軍の進駐とゴルフ場の復活

 昭和20年、多賀城に米軍空挺部隊が進駐した。当時の塩竈市長守屋栄夫氏は地区司令官ティプトン大佐並びに幹部を料亭勝画楼に招待、佐浦菊次郎も銘酒浦霞を持参し、日米の親善を図った。その席上、ティプトン大佐は大のゴルフ好きであり、佐浦菊次郎とのゴルフ談義に花が咲く。話題は上ノ原ゴルフ場に集中した。
 翌21年、ティプトン大佐名で「ゴルフ場を米軍のレクリエーション施設として使用したい。整備されたし」との命令書が塩竈市長に手渡される。佐浦菊次郎は塩竈市長よりゴルフ場の改修整備の相談、要請を受けた。米軍に雇われた300名ほどの日本人労務者が米兵の監督のもと作業にあたったが、道具類も充分ではなく、作業はなかなかはかどらない。佐浦菊次郎は意を決し、私財にてスコップや鎌などを調達し、ゴルフ場再建に大いに協力した。
 その積極的協力が認められ、佐浦菊次郎は名誉支配人として、米軍プレーヤーに交じって日本人としてはただ一人プレーが許され、ゴルフ場再建に尚一層の助力を決意する。
 昭和22年4月には、上ノ原ゴルフ場は正式に米軍レクリエーション施設として接収された。

ゴルフ場の買い戻し

 昭和23年、時代の変遷とともに職業協会の目的も消滅し、職業協会の所有となっていた上ノ原ゴルフ場用地一帯の売却処分が精算人により試みられ、以前のゴルフ場設備一切の所有者であった仙臺カントリー倶楽部関係者にもゴルフ場の買戻しの打診がなされた。しかしながら当時の仙台地方の状況は混沌としており、関係者の反応は「ゴルフどころではない」といったものであり、見送らねばならない状況であった。
 ゴルフ愛好者であり、また日本人で唯一人プレーを許され米軍ゴルファーとプレーをともにしてきた佐浦菊次郎としては、もしゴルフ場がゴルフ関係者以外に売却され、単なる利害の対象として分割、処分でもされたら、これまでの助力が水泡に帰し、また将来の東北唯一の観光施設たるゴルフ場が徒に消滅することはゴルファーとしても残念であると思い、当初は家族に反対を受けながらもこれを説得し、個人ででも買戻しを引き受ける覚悟を決めた。
 しかしながら、銀行の重役に買収資金の融通を懇請しても了解を得られない。佐浦菊次郎は、一部は友人より融資を受け、また所有の不動産等を処分し、分割支払いにてようやく払い下げを受けた。ゴルフ場の所有権は佐浦菊次郎に移り、ゴルフ場はその存続を得ることとなった。

ホール増設、そして接収解除による仙塩ゴルフ倶楽部の誕生

 昭和24年、米軍の利用者も増す一方となり「6ホールでは物足りない」として余剰地に3ホールの増設が目論まれ、佐浦菊次郎の監督の下、米軍工兵隊による拡張工事が行われた。そして、昭和10年開場以来の念願であった、東北初の9ホールのゴルフ場が完成したのである。
 アメリカ軍の工事を見ていた後の支配人、野窪拓治は「基礎工事は米軍のブルドーザーによって進められた。二人で手廻しするような大木をたちまちにして掘り下げ、普通の松の木などはブルドーザーの前進だけで次々と押し倒し、山はたちまち平坦と化す始末、日本人はただ唖然として見守るのみであった。」と書き記している。
 昭和27年3月、日米講和条約の締結により米軍からの接収解除となり、ゴルフ場の経営権は必然的に土地所有者である佐浦菊次郎の手に戻ってきた。
 佐浦菊次郎は再び、一力次郎氏、伊澤平勝氏ほか「仙臺カントリー倶楽部」時代の主だった人々の後援を得て、運営会社である仙塩ゴルフ株式会社を設立し初代社長に就任、同時に「仙塩ゴルフ倶楽部」を創立し初代理事長となり、ゴルフ場は「浦霞コース」と命名された。
 佐浦菊次郎は返還を記念して米軍のかまぼこ兵舎にかわる新クラブハウスの建設を急いだ。新クラブハウスは昭和27年初夏に完成、それを記念し7月13日には日米双方の主だった人々を招待し、盛大に落成式を兼ねての日米親善ゴルフ大会を開催した。

新クラブハウス落成式(昭和27年7月13日)

日米双方の主だった人々を招き、仙塩ゴルフ倶楽部 新クラブハウスの落成式が盛大に挙行された。現在も使用されているクラブハウス正面玄関前で撮影。

(左下)昭和28年当時のコース

昭和28年9月発行「ゴルファクラブ」という雑誌に紹介された当時の浦霞コースのレイアウト。現在のものとは若干異なっている。

(右下)昭和28年当時の8番ホールグリーンよりの眺め

現在も変わらぬ8番ホールグリーンよりティーグランド、クラブハウス方面を望む左奥にコース沿いの道路がみえる。

仙塩ゴルフ倶楽部の精神

 新クラブハウスの落成式の席上、理事長佐浦菊次郎は倶楽部関係者を代表して挨拶し、これまでの経緯をもとに日米親善の重要性とその抱負を述べた。また予想だにしなかったゴルフ場の早期返還を祝し、今後の運営にあたっては奢ることなく、あくまでもフェアーなスポーツマンシップに立脚して事に処して参りましょう、そして東北唯一のこのゴルフ場を日米親善の場にするとともに、観光施設の一端として、また利用者の保健、親睦を図る社交場として寄与して参りたいので皆さんの一層のご支援を賜りたい旨を述べ、参列者へ強い感銘を与えた。
 戦後日本の黎明と時を同じくして、日米両国人の祝福を受けながら浦霞コースは、ここにめでたく誕生した。そして、佐浦菊次郎の挨拶の精神そのものが仙塩ゴルフ倶楽部の精神となり、今日に至っていると言っても過言ではないだろう。

発展期

仙塩ゴルフ倶楽部の発展

 設立当初の頃の倶楽部の様子を、第三代理事長佐浦茂雄は「当時はまだ米軍の来場者が多く、腕前も米軍将校クラスが日本人よりはるかに優れていました。そこで、クラブ選手権のチャンピオンも第1回(昭和27年)から第5回まで、米軍将校に占められています」と語っている。日本人初の倶楽部チャンピオンが誕生するのは、日本人の来場者が急増してきた昭和30年代に入ってからの事であった。日本経済の高度成長と併行し、次第にレジャーとしてのゴルフへの関心も高まり、ゴルフコースの新設も始まった頃である。
 仙塩ゴルフ倶楽部浦霞コースも本格的なゴルフ利用者の増加に備えて、9ホールの増設計画が浮上したものの、周辺の事情から土地の取得を断念せざるを得なかった。理事長佐浦菊次郎は「9ホールでも結構だから、もう少し改造すべきところは改造してラウンドしやすくすること、また戦前の老朽化したグリーンを大改造しよう。」また、将来のさらなる来場者増に対応して、昭和35年には従来のクラブハウスに接続して新しいクラブハウスを増築し、利便とともに快適な環境の提供を図った。
 グリーンは、当初の姫高麗1グリーンを昭和40年に姫高麗の2グリーンに改造。昭和43年には片方をベントに切替える。昭和46年には2ベント化に成功。東北初の試みであり、東北におけるゴルフ場管理に新方式を提示するものでもあった。
 浦霞コースの特徴は、赤星四郎氏の設計による昭和10年の6ホールでの開場以来、米軍による接収時代を経て戦後3ホールが増設され、従来のホールとの関係もあり度々の設計変更がなされ、その都度ラウンド順も必然的に変わり、利用者がより楽しみながらラウンドするために逐次良いコースに昇華してきたという歴史的経緯をもつものであると言えよう。
 仙塩ゴルフ倶楽部浦霞コースには、このゴルフ場を戦後の荒廃から慈しみ育て上げた、初代理事長佐浦菊次郎をはじめとするゴルフを愛好した先達たちの深い愛情が、年輪を重ねコースを見守り続けてきた赤松とともに、そこかしこに息づいている。

  • 高松宮殿下 浦霞コースに遊ばれる

    高松宮殿下(昭和天皇の弟宮 中央)とプレーをご一緒した初代理事長 佐浦菊次郎(向って右側)、宮本保氏(向って左より2人目)高松宮はその後10月にも再来場された。
  • 高松宮殿下のパッティング(昭和33年8月)

    パッティングに入る高松宮殿下。後ろで佐浦菊次郎が見守る。米軍が使用していたカマボコ型兵舎も見える。