◆故郷にゴルフ場が欲しい

浦霞11代社長
佐浦菊次郎
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昭和4年、佐浦家11代当主佐浦菊次郎は、まだ、横浜で貿易商をやっていた。菊次郎は貿易商をやっていた関係上、外国人と交友する機会が多く、ゴルフをやる機会も多かった。
しかし、帰省先の仙台や塩釜にゴルフ場がない。
そこで、当時の河北新報社社長 一力次郎氏らと相談し、昭和5年、仙台市台ノ原にサンド・グリーンで形ばかりの6ホールを造った。しかし、近くに陸軍の射撃場があって危ない。そこで、どこかに良いゴルフ場の候補地が無いかと熱心に探した。そして、昭和8年、探し出したのが塩釜市上ノ原(現 庚塚)の丘陵地だった。
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◆赤星四郎氏に設計を依頼
昭和8年から10年にかけて、アマチュアゴルフ界の至宝・赤星四郎氏(大正から昭和にかけて活躍したアマチュアゴルフ界の一人者。)の設計のもと工事が進められた。ブルドーザーなどの無い時代、全くの手作業にての工事だった。
設計は9ホール。しかし人力での難工事。結局6ホールしか造れなかった。
6ホールしか造れなかったが、昭和10年10月1日ゴルフ場はオープン。 名前は「仙臺カントリー倶楽部」。東北のゴルフの歴史はこの時始まった。
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◆苦難の時代へ
しかし、やがてコースは時代に翻弄されることとなる。昭和12年7月、日中戦争勃発。人々は人目を避けてコースに通う。菊次郎もまた、昭和15年、兄昇太郎の病死によって、佐浦家の11代当主となるべく、家族全員で塩釜へ帰ることとなった。そして昭和19年、コースは軍事養成所、食料増産所として、厚生省に買い上げられることとなる。倶楽部は解散。
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◆終戦、そして「仙塩ゴルフ倶楽部 浦霞コース」として再スタート
イモ畑にしようとしたところで終戦。幸いにもコースの荒れは少なかった。昭和21年、塩釜の隣町、多賀城に駐留していたアメリカ軍より「ゴルフ場をレクリエーション施設として使用したい。整備されたし」との命を受ける。菊次郎は荒れていた6コースを整備、再開場を果たした。そして、菊次郎は名誉総支配人として、アメリカ軍軍人にまじって、日本人としてはただ一人プレーが許されることとなる。
昭和23年、アメリカ軍への正式接収が決まったのをきっかけに、菊次郎は「ゴルフ場を守る!」の決意から私財をなげうって国からコースを買い戻した。やがて、アメリカ軍は「6ホールでは物足りない」と3ホールを増設。
昭和25年、東北初の9ホールのゴルフ場が誕生した。アメリカ軍の工事を見ていた当時の支配人、野窪拓治は「基礎工事はブルドーザによって進められた。二人で手廻しするような大木をたちまちにして掘り下げ、普通の松の木などは、ブルドーザーの前進だけで次々と押し倒し、山はたちまち平坦と化す始末、日本人はただ唖然として見守るのみであった。」と書き記している。
昭和27年、日米講和条約の締結により、アメリカ軍からの接収解除。コースは菊次郎の元へ戻った。
そして、東北初のゴルフ場「仙臺カントリー倶楽部」は「仙塩ゴルフ倶楽部 浦霞コース」として生まれ変わることとなった。
菊次郎は初代理事長に就任。クラブハウスもアメリカ軍が使用していたカマボコ兵舎に代わり、新クラブハウスが完成。アメリカ軍が建てたカマボコ兵舎とともに、このクラブハウスは現在も使用している。
「浦霞コース」と生まれ変わった後、日米親善ゴルフ大会が開催される。浦霞12代社長 佐浦茂雄は当時の様子を「当時はまだ米軍の来場者が多く、腕前も米軍将校クラスが日本人よりはるかに優れていました。そこで、クラブ選手権のチャンピオンも第1回(昭和27年)から第5回まで、米軍将校に占められています。と語っていた。
日本人初のクラブチャンピオンが誕生するのは昭和32頃。その頃から日本人の来場者は急増。昭和35年にはクラブハウスを増築した。その後、9ホールの増設計画が浮上したものの、周辺の事情から土地の取得を断念、現在に到っている。
グリーンは、当初の姫高麗1グリーンを、昭和40年に姫高麗の2グリーンに改造。昭和43年には片方をベントに切替える。昭和46年には2ベント化に成功。これも東北初だった。
菊次郎は「ゴルフは人生である。修養鍛錬に欠くことのできないものである。人間は常にスポーツマンシップに立脚して、何事もフェアプレイでなければいけない」と強く提唱していた。
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菊次郎の口癖に「だんだん世の中は変わる。質より量、よい酒をよいお客にという時代から経済優先の時代に変わる。
でも、酒づくりだけは自分流を曲げてはいかん。昔のままでよい。現代的につくったら、立派な酒は絶対できん。損得ぬきで行け。」という言葉があります。ゴルフ場経営もまた同じ。「トントンでいい。現代的に(収入至上主義で)やる必要はない」という考えで運営してきました。
それはなお、佐浦家12代当主 佐浦茂雄へ、そして13代当主 佐浦弘一へと引き継がれています。クラブハウスは開場当時のものです。しかし、古き良き時代の静粛で安閑とした雰囲気を今に伝え、そして、居心地良く、心やすらぎ、訪れる人に家族的な暖かさを感じ与えます。そして、ハーフの後は冷えた浦霞が待っています。赤松の林の中、一度プレーしてみませんか?きっと心が安らぐことでしょう!
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