浦 霞 の 昭 和
〜平野重一とともに歩んだ浦霞〜
| 平野重一編 戦後の蔵での生活、楽しみ | ||||||||
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重一は浦霞に来た当初2〜3年の間、夏場は岩手に帰っていた。 だんだんと浦霞の製造数量が多くなるにつれ、住まいも塩竈に移し、瓶詰め作業の手伝いをしながら夏場も浦霞で働くようになっていく。一年を通して貯蔵庫の管理も行っていた。 冷房設備の無い時代。貯蔵庫内を冷やすことも重要な仕事の一つだった。夜明け前の一番冷える時間、戸や窓を全て開け放し、外の冷気を取り入れ、日中温度が上がって来る頃に全ての窓や戸を閉める。 蔵の構造は良く考えられているもので、入り口は北向き。南側と東側に窓があり、西側には窓がない。朝の冷気を取り入れる為には東側の窓を開ける。換気させるには北側の入り口から冷気をとり入れ、南側の二階の窓から逃がす。西側には窓を作らず、酒屋が嫌う西日の影響をなくす。 |
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| 夏の間、重一は朝、できるだけ蔵の温度を下げ、日中は瓶詰め作業の手伝いをしていた。 |
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当時の蔵での楽しみと言えば、活動写真を観に行くことや俵担ぎの力比べ、溜(ため)担ぎの練習等だった。映画を活動写真と言っていた時代。そんなことが楽しみだった。 当時、重一が覚えてるだけでも塩釜には4軒の映画館があった。映画館へ行くのは夕飯を食べ、こうじ室で一仕事した後。映画を観るのはいつも途中からだった。それでも行きたかったと重一は言う。 また、一升枡に上がり俵を担ぐ力比べもやった。一升枡は直径20cm弱。それに上がって、枡から落ちないように60kgの俵を担ぐことを競い合う。時には賭ける事もあった。賭けは俵を口で持ち上げられたら幾らとか、何m歩いたら幾らとかというものだった。重一は口に銜えて10mは歩いたと言う。しかし、そんなことをした次の日には首を曲げることが出来なかったと重一は笑う。 |
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棒押しや腕相撲等もやった。棒押しは1間(180cm)位の棒を2人で押しくらべするもの。押し切られた方が負け。棒押しにしても腕相撲にしても勝つには要領があった。要領を知っていた重一はあまり負けることがなかったと言う。 |
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当時の塩釜には遊廓があり「退屈だから、一回りしてくっか」などと冷やかしで遊廓を一周したりもした。 |
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ある日、船頭から祭りに誘われた。祭りに行ったはいいが、雪は降るは大風は吹くはで船で帰れなくなった。重一は「6、7人行ったんだもの、泊まるったって相手に迷惑かけるし。泊まったらおれたち朝の仕事できねぇし。歩いて来たなぁ。もう、ガッジガジさ。冬時だから。そんなこともあったなぁ。船、だめなんだもん、風吹いて。」と言う。そんなこともあった。 |
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重一の若い頃。仕事に遊びに充実していた。 |
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