平野佐五郎杜氏(ひらのさごろう)



浦霞では昔から南部杜氏に酒造りを任せてきました。

戦前(昭和初期〜昭和20年)からの杜氏畠山長蔵は、かなり良い酒を造り続けて来ましたが、戦後、高齢により退職となりました。その後、昭和21年より熊谷杜氏(盛岡出身)が新任となり、酒造期のみ入蔵しましたが、蔵元として期待した通りの酒は出来ず悩んでいました。

当時、局の鑑定官室長から、『宮城県の醸造試験所長になった長沼篤治先生から聞いた話で、宮城県の或る蔵で非常に腕の良い杜氏がいる。但し、絶対自分の気に合った酒しか造らない。気難しい。どっちかと言うと「むんつん」者。

現在の蔵の当主と意見が合わず、花巻の実家に帰っているんだが、それでよければ話しをしてあげるがどうか』という話をいただき、『それは面白い。酒造りは一切まかせて口は出さないから紹介して貰いたい』という事になりました。その人が平野佐五郎杜氏です。

◆佐五郎杜氏の酒造り












平野佐五郎杜氏は、吟醸造りに心血をそそぐ名人気質があっただけに、酒造りに関しては信念を絶対まげない頑固さがありました。それ故に、級別制度時代の2級酒を造るにおいても妥協は許さない心意気を持っており、蔵元の当主と折合わず、3、4の蔵を渡り歩いたようです。

昭和24年に浦霞に入りましたが、佐浦家当主佐浦菊次郎は”酒造りはすべてを委すから良い旨い酒を造る様に”との注文を出しただけでした。従って、平野佐五郎杜氏にとっては処を得たとも言えたのではないでしょうか。

平野佐五郎杜氏が浦霞に来て最初にやった事は、仕込蔵の隅から隅迄雑巾掛けの後消毒し、麹室の清掃はじめ場内すべての整備清掃でした。また、蔵人達の身なりやトイレの後の手洗いから整髪料のにおいにまで目を光らせ、厳しく指導しました。また、原料米から燃料の石炭にいたるまで、すべての工程に徹底的にこだわり吟味をしました。


◆佐五郎杜氏のもとで







当時、平野佐五郎杜氏のもとには、常に2〜3人の杜氏経験者が再勉強のために蔵入りしており、議論も活発で、さながら杜氏養成所の観がありました。作業中はピリピリとした張り詰めた緊張感が漂い、一種独特の雰囲気であったようです。

局の鑑定官の先生方も造りについては一目も二目もおいていました。むしろ、酒造りについて佐五郎杜氏に相談しに来た感じさえありました。国税庁醸造試験所の所長も歴任された鈴木明治先生も来蔵した時に「君のところの平野君には僕が言おうと考えてきた事は全部やっていて、何も言う事はないよ」とお話しになられた事もありました。

◆その後の浦霞
綬褒章受賞時の
平野佐五郎杜氏
(S40)
春の全国新酒鑑評会で連続して首位となった時(S27 首席 S33 首席・2位S34 首席・3位)、その当時では余りに香り(吟香)が飛び抜けていたためか、国税庁醸造試験所より古武山先生が視察に来られ、造りを確かめて感心して帰られた事を古武山先生からお聞きした事もありました。

ただし当時は濃醇な酒が一般的であり、しかも酒であれば何でも売れる時代(昭和20年代〜30年代)であったため「浦霞」の名は清酒業界では有名になりましたが、一般市場では鳴かず飛ばずの状態が続いておりました。地元のみならず首都圏からの引き合いも強くなり、浦霞がその出荷数量を飛躍的に伸ばすことになるのは、平野佐五郎杜氏の甥であり愛弟子でもあった現在の製造部長の平野重一杜氏が酒造りの責任者となり、地酒ブームがおきた昭和50年代に入ってからのことです。