会社案内
2.平野重一編
生い立ちから浦霞へ来るまで
Vol.2

平野重一は昭和4年3月9日に岩手県和賀郡更木村(現 岩手県北上市更木)の農家に、3人兄弟の末っ子として生まれた。更木村には早くから多くの酒造りの集団があった。重一の祖父も酒造りをやってきた。大叔父の平野三蔵も早くから杜氏仕事をやってきた。重一が酒造りを志した頃には平野三蔵の酒造りの集団に対する貢献を讃えた石碑(台座:高さ1M 幅2M 奥行1M 石碑本体:高さ2M)が、更木村の松尾神社に自然石で建っていた。それを見た重一は「別家のおじいさんは偉いもんだなぁ。」といつも思っていたと言う。
※松尾神社・・・お酒の神様を祀った神社。
後に重一の師となる叔父の平野佐五郎も一時期、この大叔父平野三蔵を師と仰いでいた。佐五郎は重一が小学校5年の頃には更木村にあった酒屋の杜氏をしていた。(平野佐五郎についてはまた別の機会に。)そこへ重一はよく小遣い銭を貰いに遊びに行ったと言う。その当時、酒屋では蒸した米を手で押し潰し、餅状にしたひねりもちを作っていた。ひねりもちは米のふけ具合を確認する為に作る。蒸した米を若い蔵人が練り、杜氏が電灯にかざして米のふけ具合を確認する。それで良しとなれば蒸し米を取り出すこととなる。そのひねりもちを貰うのもまた楽しみだった。
その頃、重一はまだ酒造りをやろうとは思っていなかった。
ただ、いつも遊んだ松尾神社の境内に大叔父の石碑が建ち、祖父も叔父の平野佐五郎も酒造りをしていたので何かと酒造りには縁があった。心のどこかに酒造りをしたいという思いはあったのではないだろうか。
昭和16年12月8日、大東亜戦争(太平洋戦争)勃発。重一、12才の冬だった。
その後、戦局が悪化。勉強どころではなくなっていった。重一は軍需工場で働くこととなる。場所は東京と埼玉との県境(今の東京都板橋区の辺り)。東北本線を蒸気機関車にて上京。夕方、汽車に乗ると次の日の朝に上野に着いたという(当時、仙台、上野間は急行で9時間。重一の故郷、更木村からは10時間以上の時間がかかっていた。)
軍需工場では戦闘機の部品を作っていた。「部品、一生懸命つくったんだ。」と重一は言う。当時、国が非常時に国民を強制的に集め、一定の仕事につかせる徴用という制度があった。軍需工場で働いている重一に職場ぐるみで徴用される現員徴用がかかる。徴用がかかった時点で自由がきかなくなったという。
終戦間際になると、夜も昼も爆撃。仕事どころではなくなっていく。
夜には焼夷弾が投下される。焼夷弾による火災の明かりを目当てに爆撃。さらに昼も爆撃。終戦時には辺り一面焼け野原。建っているのは煙突くらいだったという。
都立九中(現 都立北園高校)から見た中山道方面の焼けあと
東京都立北園高等学校 所蔵
板橋区公文書館 提供
B29が45度位の角度に見えた時には顔色が変わったという。B29が45度位の角度に見える時に爆弾を落とすと、B29の飛行速度により目的物の真上に爆弾が落下する。「B29なんつうのは、おらの体くらいに低空に飛んできてやるもんだん。その辺に見える頃にはもう顔色ねえもんさぁ。頭の上に来た時は大丈夫なんだ。おっかなかったぞ-。」と重一は当時の様子を振り返る。朝、一緒に食事していてもお昼頃には爆撃で亡くなったという人が何人もいた。そんな生きているのが不思議な位の場所に重一はいた。
昭和20年8月15日、終戦。
しかし、動員解除や徴用解除等の命令がなく、家に帰るに帰れず重一は3ヶ月位ぶらぶらしていたという。
重一の兄弟はというと、戦争で死んだとばかり思っていた長兄が終戦後2~3年たった後に帰ってきた。ラバウル等で高射砲を担当していたという。南の島にて終戦。来る船もなく鼠やトカゲ等を食べて生きながらえていた。栄養失調になって帰国。長兄は昭和26、7年頃には冬場は酒造りをしていた。次兄も職業難時代は酒造りをやったという。
3ヶ月後徴用解除。重一は家に戻って農作業をやっていた。しかし、農作業が忙しいのは夏の時期だけ。冬は仕事がない。「仕事が無いのでは出稼ぎに、酒造りにみんなといこうか」というのが重一、酒造りの始まりだった。それが、昭和21年の11月。重一、17の冬だった。
最初の酒造りは叔父の平野佐五郎についていって宮城県石巻の蔵元。
最初は当然雑役。「水仕事が辛かった。来年はやめようと思っていた。友達が行ったとか同僚が行ったとか聞くとまた酒造りに出たくなる。そして来ると来年からこね(来ない)と思った。何年かそれが続いた。」と重一は言う。酒造りが面白くなっていくのは浦霞に来て頭(かしら。杜氏の補佐役)を務めた頃(昭和30年頃)。だんだんと責任が出てきてからのことだった。
昭和24年11月。平野佐五郎が杜氏として浦霞に移ることとなった。佐五郎の配下の蔵人とともに重一も浦霞へ移る。
重一が塩竈に来た当時はそこかしこにかまぼこやさん、加工屋さんがあった。「さすが、塩竈。魚の町だと思った。」と重一はいう。

現在の浦霞ののれんをくぐって直ぐある石畳は重一が浦霞に来た頃と少しも変わらない。だが、当時は石畳が終わると蔵内は全て土間になっていた。中に入ると暗く、明かりをつけないと仕事ができない状態だったという。
その頃は仕込み用の琺瑯タンクは7本だけ。酒母用の琺瑯タンクも5〜6本だった。当時の琺瑯タンクは修理を重ね、現在も使用している。
他は全て木桶での酒造りだった。米の精米歩合も85%ほど。米が黒く、発酵温度も高かった。仕込みも厳冬期のみ。製造数量も500石(1升瓶で50,000本)程度だったのではないだろうか。それが昭和24年の浦霞だった。