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2.平野重一編
戦後の酒造り
Vol.3
重一達が浦霞に来た当初は、酒造りの原料となる米の手配もままならない。当時、米は統制品。米を手に入れるには一般の人々は配給を待つのみだった。蔵元に対しては製造数量の規制があり、それに基づいて米が割り当てされた。割り当てられた米は非常食料として政府が蓄えていた蓬莱米(台湾米)や朝鮮米。それも船でバラ積みされてきたもの。それを日本で南京袋に詰め、何年も貯蔵したものだった。蒸かすと嫌な臭いがした。その様な米での酒造りだった。
米を蔵の精米所へ運ぶのも一仕事。南京袋へ入れられた米の重さは100kg。それを蔵の裏手に横付けされたトラックから肩に担いで精米所まで運んだ。その時のことを重一は「あの米の100kgっていったらすごかったなぁ。トラックの上に2人乗っかってて、俺たちが下に行くと2人で乗せてくれるさ、背中に。そうすると『ウッ......』って言ったもんな。だから途中で落っことしたら1人でなんか上げられないもの。そしてみんなで順繰りにやらないとないべぇ。大変だったよぉ、あの頃は。」と笑って言う。
精米歩合も85%程度。質の良くない米でも全体量が少ない為、勿体なく削れなかった。

蒸かした米も当時は全て自然放冷。風通しを良くする為、会社の門を開け、入口付近まで米を広げていた。米の無い時代。道行く人は皆、うらやましがった。
酒の仕込みは通称6尺桶(直径が6尺:約1.8m、深さが6尺:約1.8m)という木の桶を使っていた。
現在使用している木桶。直径:約1.5m 深さ:約1.3m
戦後使用していた6尺桶(直径:1.8m、深さ:約1.8m)よりもだいぶ小さい。
この木桶。手入れが大変だった。
桶は毎日、釜の残り湯を使い、竹ささら(竹で作ったブラシ。)で洗う。それもただ擦るのではなく、ささらをねじるようにして桶の汚れを絞り出す。柄杓で熱湯をかけながら毎日毎日繰り返し洗う。洗っては熱湯を振りかけてと1ヶ月続ける。
桶に振りかける熱湯も18リットルから20リットル程入る桶(溜桶(ためおけ)という。)で担いで運ぶ。
この溜桶で担いで柄杓で振りかける作業も年季がいる仕事だった。熱湯を振りかける時、小さな柄杓で両側から交互に絡めるように振りかける。それを一人で行う。
要領を得ないと自分に熱湯が掛かってしまう。
桶を毎日きれいに手入れし、いよいよ使うという段になって、満量湯ごもりという、桶一杯に熱湯を入れる作業を行う。これにも技術が必要だった。
木桶に入れるお湯は2300リットルの釜3つに沸騰させ、3役(頭:杜氏の補佐役、こうじ師:こうじ造りの責任者、もと師:酒母造りの責任者)が9リットル入る柄杓で蔵人が持っている溜桶に交互に入れてゆく。溜桶は蔵人が木桶まで担いで行く。それを順繰りに行う。上手い人は木桶まで走る。
溜桶を担げない人は手に持って運ぶ。量も「おまえ下手だから柄杓一つ。」というわけには行かない。しかも上手い人に追い立てられる。追い立てられると辛い。
その時のことを重一は「だから溜担ぎ、上手くなったんだ。担げないやつは前に持って、必ずみんなと一緒に順番に歩かないとならないんだもの、そうすると辛いんだよな。疲れるし。だからって下げてもなかなか容易でないわけ。担ぐのが一番いいわけなんだ。だから、俺みたいな下手なのは、夜、溜に水入れて練習したんだ。そうすると下手だからぶん投げるっちゃ。安定感がないんだもの、下手助だから。そうすると溜を壊すわけ。壊すと今度は怒られてなあ。そのころは桶屋さんが毎日来てるから、『溜壊した』って言うと内緒で直してくれたわけさ。」と笑って言う。
重一は溜担ぎは右手一本で溜を支え、溜をまわして中のお湯をまわしバランスをとり走ったと言う。
今はもう重一のように溜を右手一本で支えることができる者はほとんどいない。
溜担ぎが下手な者は右の写真の蔵人のように、溜を肩に担ぎ、溜を頬につけたと重一は言う。
しかし、熱湯はとてもじゃないがそんな担ぎ方はできない。それで溜担ぎの練習が必要となる。
桶は使わない時にはごみが入らないように横にしておく。
横にしておくにしてもただ横にするのではなく、底板の合わせ目が縦方向になるように揃えなければならない。底板の合わせ目が横になると板の重みで桶の形がゆがんでしまうからだ。底板の合わせ目が縦方向になるように桶を置くのは簡単だが、それでは桶の口があちらこちらを向き、見た目が悪い。
その為、見た目を良くし、整理整頓するという意味合いからも桶の口を揃え、桶を何本も並べて横から見た時、桶が一直線に並んでみえるようにしていた。
横に並べることも、何人かの人間で桶を持ち上げて並べれば簡単だが、一人で底の合わせ目が縦になるように並べ、桶の口を揃えなければならなかった。
桶を横にしておくのも一つの技術が必要だった。
その頃、酒母仕込み用のタンクも本数が少なく殆どが木桶を使用していた。この桶(直径約1m、深さ約1m)は一人で持ち運ぶようになっていた。また汚さないようにしなくてはならない。重一は「俺が酒母造りをやっていた頃は蔵の二階まで桶を担いで登ったもんだ。今の若い連中と言うと悪いが、桶担いで階段登れる人何人いるかなぁ」と言う。
暖気樽(だきだる:中に熱湯を入れ、酒母を加温するための小樽)も汚さないようにと頭の上に抱えて運んだと言う。
重一の時代、体力も根気もそして、全てにおいて技が必要な時代だった。